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三大異端と三位一体

統一教会、モルモン教、エホバの証人とは関係ありません

キリスト教会のパンフレットなどで良く見かける言葉です。

この三つのグループは「三大異端」などとも呼ばれているようです。

(以前の記事も参考にどうぞ→三大異端と霊魂

「異端」と認定される最重要な要素は、「聖三位一体」の教理を否定しているかどうか、と言うことのようです。
ボクには、西暦4世紀ごろから徐々に定着してきた「三位一体」こそが真の「異端の教え」だと思うのですがね。

プラトンなどのギリシャ哲学の影響を強く受けて成立した「三位一体」は、なにか洗練された、高級な教理のように思うのでしょうか、これを理解できない人々は『愚かで、頭の悪い、劣った者たち』であるという論調もよく見られます。

ギリシャ人は自らを「ヘレネス(ヘレンの子ら)」と呼び、他の民族を「バルバロイ」と呼んで蔑んだのですが、「正統的な」キリスト教会も、異端とみなす人々を、高級な「聖三位一体」を理解できない「野蛮人」のように言ってきました。

なんだかなぁ~

ボクは「地獄」の教理の次に「三位一体」が嫌いです。父と子の間の美しい愛の繋がりを、奇妙な自己愛(ナルシズム)に変えてしまうからです。「父と子が同じだ」と思うならば、「父と子の間の愛」という、聖書の一番「美味しい」ところに気付けないことになります。残念で、かわいそう。

→地獄なんて、ないよ!①

ボクはキリストの持つ「神性」を否定しているわけではありません。キリストは確かに「神のような」方です。父を尊敬する子は父によく似た人格を身につけます。そもそも父と子はそのようなものです。「同等」だの「同一」だの、「父でもあり子でもある」とか「神でもあり人でもある」などと強弁する必要はないはずです。すごく無理がある。

「三位一体」が分かりにくい、すなわち説明しにくい教理であることは誰でも認めることでしょう。論理的には説明できないので、感情的にならざるを得ません。聖霊の働きによって理屈抜きに悟ることができる「奥義」なんだ、と威張るしかありません。

…とにかく神さまは「三つの位格(ペルソナ)」をお持ちなんです。それを信じられないなんて言っちゃダメ! そういうものなんだと信じることが大切なんです。聖霊様が明らかにしてくださいます…という感じでしょうか?

さて、三大異端は非・三位一体では共通しているわけですが、否定の仕方はそれぞれ違います。
どう違うのか? 簡単にまとめてみましょう。

まずは、ボクが一番よく知っている「エホバの証人」から…
(他の二つについては基礎的なことしか知らないので誤解があるかもしれません)

●エホバの証人
「父」すなわち創造者である神は唯一無二の方。その他のものはすべて創造されたもの。神が最初に創造された「初子」が「御子」であるイエス・キリスト。神は「御子」を通して他のすべてのものを創造した。「聖霊」は神の力の表れであり、活動力のこと。

●統一教会
「父」についてはエホバの証人と同じ。「子」であるイエス・キリストはマリアと祭司ザカリアの間に生まれた「私生児」。「聖霊」は女性神であり、イエスの妻のような存在。

●モルモン教
「父」なる神は、元々は人間であり、天でも肉体を持った存在。「子」は父なる神により産み出され肉体を持っている。「子」は万物を創造した。「聖霊」は「父」と「子」と異なり、肉体を持たない存在。

やっぱり、統一教会とモルモン教については、良く理解できません。理解しようと、時々努力してみるのですが…

ボクが若いころに知り合った統一教会の人々やモルモン教会の若き宣教師たちは、みんなまじめで良い人たちでした。キリスト教会の人たちも良い人がいましたが、幾人かはこちらを見下す高慢さを感じさせました。やはり「正統意識」がそうさせるのでしょうかね。

統一教会やモルモン教会の教えの中には、ボクにはとっても奇異に感じられるものがありますが、「三大異端」として一括りにされているという点でシンパシーを覚えます。機会があればまた、話し合ってみたいなと思っています。

あっ、キリスト教会の人たちも嫌いじゃないですよ。同じ目線で互いに敬意を持って語りあえる人ならば、喜んで話し合ってみたいですね。

神さま探し⑤数学

「数学」にずっと興味を持っています。いや、憧れを抱いていると言った方が正解かな。

このブログでも例えば小説では「博士の愛した数式」、エッセイでは「世にも美しい数学入門」、ノンフィクションでは「フェルマーの最終定理」などを取り上げてきました。

→数学者になりたいっ!
→人間…神さまの傑作品④美しさを求める心

勉強としての数学が得意だったいう意味ではありません。中学時代には公式を覚えないとならないことにつまずき、高校時代では数学で「赤点」をとってしまい卒業が危うくなったこともありました。

それなのに、嫌いにはなれないのです。微分だの積分だの、サインだのコサインだのという世界をのぞき見るだけで頭がくらくらしてしまうのに、「いいな~、数学って」思うのですから、やっぱり単なる憧れなんでしょうね。

さて、今回の「神さま探し」として、「数学」をあげたいと思います。

宇宙という書物は数学と言う言葉で書かれている」と、400年も前に地動説を唱えたガリレオ・ガリレイは言ったそうです。その後も宇宙のしくみは数学によって解かれてきました。とはいえ、調べれば調べるほど、新たな謎が立ちふさがるような状況のようです。

→「宇宙は何でできているのか」①
→「宇宙は何でできているのか」②

宇宙が数学の法則に支配されていることは、まぎれもなく神さまの存在の証明だと思うのですが、皆さまはどのように考えられるでしょうか? 宇宙がカオス(混沌・無秩序)ではなく、コスモス(秩序)であること。この事実だけで、創造者がいることの十分な証明だとボクは思います。

だから本当は科学は「神さま」=「創造者」を前提として研究されるべきなのです。ところが、どういうわけか、「神さまはいない。すべては偶然の結果だ」という前提でスタートする科学者がほとんどのようです。いやいや、それではスタートも切れてはいない。無駄なところをぐるぐると走りまわっているとしか思えません。もったいないなぁ~。

さてさて、今日のテーマは数学でした。

●「三角形の内角の和は180°である」…どんな三角形だってそうなのである。どんなに尖がった奴だって、どんなに平べったいやつだって、何が何でも180°なのである…これって、不思議で、「美しい」と思いませんか?

だからこんな問題も簡単に解けるのです。
三角形


●「1+3+5+…+(2n-1)=n×n (nの2乗)
奇数の和は必ず、ある数の2乗(平方数・四角数)になるのであ~る。
四角数

やっぱり不思議で美しい。

なんか、神さまはご自分が考えたパズルを解いてほしくて、人間を造られたのではないかなぁ。

子どもの頃、「頭の体操」という本がベストセラーになっていて、ボクも問題を解くのが大好きでした。まあ、数学とは関係ない問題が多かったと思うけどね。

たしか、「大勢の人たちが歩いているスクランブル交差点に、一台の大型トラックの運転手が、ガーッて走ってきて交差点を横断したんだけど、誰も怪我しなかった。それはなぜ」みたいな問題を覚えてます。

むむむ、話が完全に脱線していますね。

ボクが言いたいことは…こんな感動でした↓↓

神さまの定めた数学の法則によって、ボクラの住む世界は隅々まで、なんて美しくて、なんて不思議なんだぁ~!

「初心忘るべからず」(世阿弥)

室町時代に「能楽」を大成させた世阿弥(ぜあみ)と言う人の言葉です。

①「何事においても、始めた頃の謙虚で真剣な気持ちを持ち続けていかねばならないという戒め」などと説明されます。

②「初心者のころの、未熟でみっともなかった自分の姿を忘れないように」という意味もあるとの説明もありました。

②の意味と似ているかも知れませんが…
ボクが聖書を学び始めたのは14才でしたので、集会に出席し始めると、クリスチャンの兄弟姉妹たちから、「○○君」と名字に「くん」をつけて呼ばれました。なかなかバプテスマを受けない人だったので、21才になっても「○○君」と呼ばれ続けました。じつはボクは若いころはかなりの「童顔」でありまして、結婚した後でも、家に尋ねてくるセールスマンの人から「お母さんはいますか?」といつも言われていました。

その後、やっと「○○兄弟」と呼ばれるようになっても、ボクの心には常に「○○君」時代の自分が住み続けています。人前で聖書の話をしたり、討議を司会するような時には、心の中で「あの○○君が良くやってるよ」とつぶやきます。なんだか気恥ずかしいのです。初めて割り当てられた5分間の話の「割り当て」に拍手をもらって、意気揚々と歩いていた「学生服」姿の自分が浮かんでくるのです。恥ずかしい~

①「何事においても、始めた頃の謙虚で真剣な気持ちを持ち続けていかねばならないという戒め」に近いのかもしれませんが、聖書には次の言葉があります。
(啓示 2:1‐4) …エフェソスにある会衆の使いに書き送りなさい。…『わたしはあなたの行ないを知っている。また,あなたの労苦と忍耐を…あなた方は忍耐を示しており,わたしの名のために耐えてきた。そしてうみ疲れたことがない。とはいえ,わたしにはあなたを責めるべき[こと]がある。それは,あなたが,最初に抱いていた愛を離れたことである。

クリスチャンとして注意しなくてはならないことは、神さまとイエス・キリストに対して抱いた「初めの愛」が冷えてしまうこと。そこまでは行かないとしても、神さまを知ることができた時の「初めの感動」が薄れてしまうことです。

物事は何につけても、慣れていくうちに当たり前になってしまうものですね。

ボクはこのブログで、「原始キリスト教」の教えを理解できた時の感動を忘れないように心がけながら、記事を書いています。

例えば、ボクはなかなか神さまを心から信じることができずに悩んでいたのですが、いつの間にか、疑心が確信に変わっていることに気付いたとき、とても感動しました。そのことを、例えば神さまを原点とする人生観の素晴らしさについての記事や進化論の矛盾などの記事を通して書いています。考え方が180°変わったことに自分でも驚いているのです。

また、神さまのご意志が、この地球を元通りの「楽園」に変えることだと理解した時の感動があります。神さまの「王国」あるいは「御国」によって、この地に楽園が回復するのです。いいでしょう? 最高の教えですよね。そして多くの人たちが地上に「復活」するのです。なんと素晴らしい希望でしょう! これは「霊魂不滅」の教えに染まっていて、「天国と地獄」の教理を説いているキリスト教会の教えとなんと違うのでしょうか!

ところが、いつの間にかボクらは、素晴らしい聖書の真理を当たり前のもののように考えてしまいます。それだけでなく、まだ持っていない何かに目が行ってしまい、不満や批判などのネガティブな気持ちになってしまうのです。

そう、ここでも「初心忘るべからず」なのです。

ボクらは「鳩のような純真さ」を忘れてはならないのです。
(マタイ 10:16) …蛇のように用心深く,しかもはとのように純真なことを示しなさい。

「幼子のような謙虚さ」を保ち続ける必要があるのです。
(マタイ 18:4) …だれでもこの幼子のように謙遜になる者が,天の王国において最も偉大な者なのです。

ボクはイエス・キリストとその弟子たちが教えた「原始キリスト教」に深く魅せられています。
長年にわたって埋もれていた聖書の真理が、この時代に甦ってきていることに心が震えます。

この感動、この「初心」を、決して忘れないようにしたいのです。

神さまお名前と「新世界訳聖書」

14才の夏に初めて手にした自分用の聖書は、日本聖書協会の「旧新約聖書(文語訳)」でした。分からないままに読み進め、創世記2章10節から15節に目が留まります。

10:河(かは)エデンより出(い)でて園(その)を潤(うる)し彼處(かしこ)より分(わ)かれて四(よ)つの源(みなもと)となれり
11:其(そ)の第一(だいいち)の名(な)はピソンといふ是(これ)は金(きん)あるハビラの全地(ぜんち)を繞(めぐ)る者(もの)なり
12:其(そ)の地(ち)の金(きん)は善(よ)し又(また)ブドラクと碧玉(へきぎょく)彼處(かしこ)にあり
13:第(だい)二(に)の河(かは)の名(な)はギホンといふ是(こ)れはクシの全地(ぜんち)を繞めぐる者ものなり
14:第(だい)三(さん)の河(かは)の名(な)はヒデケルといふ是(これ)はアッスリヤの東(ひがし)に流(なが)るるものなり
第(だい)四(し)の河(かは)はユフラテなり

15:ヱホバ神(かみ)其人(そのひと)を挈(と)りて彼(かれ)をエデンの園(その)に置(お)き之(これ)を埋(をさ)め之(これ)を守(まも)らしめ給たまへり

エデンの園から流れ出るという四つの川の名前が妙に気になったのです。この四つの名前を暗記することにし、何度も「ピソン、ギホン、ヒデケル、ユフラテ!」と、何かの呪文のように唱えたのでした。そして、大切にしていた、ちょっと高い鉛筆である三菱の「ユニ」の頭の部分を、四本だけ少し削って、そこに四つの名前を書きこんだのでした。

むむ、いかにも男の子のやりそうなことですね。

「明治訳」と呼ばれる文語の「旧約聖書」には、引用部分にもあるように、神さまのお名前が「ヱホバ」として何千回も表記されていましたので、どの宗派の教会でも「ヱホバ」に愛着を覚えるようになりました。今でも年配のクリスチャンは、きっと心のどこかに「ヱホバ」が大事に仕舞われているはずですよ。この発音は一般にも広く流布しましたが、日本聖書協会が昭和29年に出版した「口語訳」で、すべてが「主」に置き換えられたことを契機に、しだいに使われなくなってしまいました。今では、「エホバ」と言えば「エホバの証人」というクリスチャンのグループの代名詞のようになっていますね。

参考に→文語聖書と神さまのお名前
→「ゴッドは神か上帝か」
→神さまのお名前の発音

さてさて、そこで「新世界訳聖書」の登場です。

日本語では1982年に、やっと全巻がそろって一冊の聖書として「ものみの塔聖書冊子協会」から出版されました。「新世界訳聖書」の翻訳方針の一つは、神さまのお名前をその国で一般に流布されている発音と表記で訳出するということですから、日本語では当然「エホバ」が採用されました。ちなみに「新世界訳」は現在120か国以上の言語で発行されていますので、み名の発音も「ヤーウェ」など、多くの人が原語の発音に近いと考えている発音が採用されている国も多くあります。

この聖書、案の定、「正統」とされるキリスト教教会からは、「異端」の聖書として常に批判の対象となっています。

そりゃあそうです。神さまのお名前を明記しているだけじゃなく、かの「聖三位一体」を否定する立場で訳され、なおかつ「地獄の責め苦」を生み出す「霊魂不滅」の教理も否定しているんですからね。控え目に言っても、「どえりゃ~聖書」なのです。

良くやった、あっぱれ三つ!…という感じです。

参考に→新世界訳聖書③
→新世界訳聖書②
→新世界訳聖書①

「新世界訳聖書」が神さまのお名前を聖書に「復活」させたことは、まさに快挙なのですが、とりわけ「快挙」としてボクがとりあげたいことは、「新約聖書」の中にも「エホバ」を復元させたという一大事です。

神さまのお名前を表すヘブライ語のYHWHは、原語のヘブライ語だけでなく、翻訳された「共通ギリシャ語」の「旧約聖書」の写本にも表記されていたことは証明されています。

参考に→ファド・パピルス266

ところが、西暦1世紀にギリシャ語で書かれた「新約聖書」の写本で、YHWHを表記してあるものは、まだ見つかっていません。ですから、文語訳の新約聖書(大正訳)にも、「ヱホバ」は訳出されてはいませんでした。

ですから、「新約聖書」にも神さまのお名前を復元させた「新世界訳聖書」は、まさに「やってくれたな」という感じの一大「快挙」を成し遂げたのです。もちろん、人によっては、これを「暴挙」ととらえることでしょうけどね。

ボクが、これを肯定的に「快挙」ととらえる理由は、これまで何度も書いてきましたが、写本の有無ではなくて、疑問の余地のない「聖書中の証拠」によります。つまり、イエスキリストや弟子たちが、明らかに「み名」を愛し、用いていたという「証拠」です。
→「原始キリスト教」と神のみ名

さて、「新世界訳」はどのように新約聖書に「み名」を復元したのでしょうか?

第一の方法は、単純な方法で、大部分にあてはまります。それは、イエス・キリストや弟子たちが「旧約聖書」から引用した聖句に「YHWH」が含まれている場合に、各言語で広く使われている発音で「YHWH」を表記するという方法です。だから、ボクには感動モノの次のような聖句が登場したのです。

(マタイ 4:4) …しかし[イエス]は答えて言われた,「『人は,パンだけによらず,エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない』と書いてあります」…申命記8:3の引用
(マタイ 4:7) …イエスは彼に言われた,「『あなたの神エホバを試みてはならない』とも書いてあります」…申命記6:16の引用
(マタイ 4:10) …その時,イエスは彼に言われた,「サタンよ,離れ去れ!『あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,この方だけに神聖な奉仕をささげなければならない』と書いてあるのです」…申命記5:9,6:13の引用

→イエスと神のみ名

第二の方法は、文脈や言葉の親和性(例えば「エホバのみ使い」)から判断し、既存のヘブライ語訳聖書を参照しながら、必要な個所に「YHWH」を復元するという方法です。

そのようにして、「新約聖書」中の237か所で、(日本語では)「エホバ」が復元されました。これは、とても大胆かつ勇気がいることだとも思います。なぜなら、「正統的」なキリスト教会では正反対な傾向が続いているからです。つまり、「YHWH」を7000回に近いすべての個所で、「主」や「神」という一般名詞に変え、結果として「み名」を用いることに愛着どころか違和感を覚えるクリスチャンが量産されているのです。

聖書から神さまのお名前を取り去ることにこそ、違和感を感じるべきなのではないでしょうか? なぜなら、そのお名前は、神さま
ご自身が名づけられたものであり、永遠のみ名として何度も言及しておられるからです。

(出エジプト記 3:15) …そののち神はもう一度モーセに言われた, 「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『あなた方の父祖の神,アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神エホバがわたしをあなた方のもとに遣わされた』。これは定めのない時に至るわたしの名代々にわたるわたしの記念である。

それに、イエス・キリストが教えられた「主の祈り」で最も強調されていることは何でしょうか?

(マタイ 6:9) …天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。


そんなこんなで、ボクは「異端」の聖書、「新世界訳」を応援しています。この「風に向かって立つライオン」のような、孤高の聖書翻訳を大いに推薦したいと思います。

ライオン

ファースト・ルーク(39)若者たち

その夜は宴会になった。ルークには、ご馳走以上の喜びもあった。エスターに会えるのだ。

ピーターの父で建築主のジョナがあいさつする。
「皆の衆、今日はほんの気持ちだが、みんなの顔がそろったということで、まあ、前祝ということで、楽しんでくだされ。うちの女衆がご馳走を作ったで。男衆には、神の恵みのぶどう酒もいっぱいあるで。そんでも飲み過ぎんでください。明日からもうんと働いてもらわにゃならんのでね。はっはっは」

共同で事業をしているゼベディも上機嫌だ。
「今年は農夫たちも豊作だったようだが、俺たち漁師にとってもいい年だったずら。最近はよ。魚網も奮発して新式のを手に入れたもんでよ。漁獲量がずっと増えたずら。ジョナの家も古くなっていたもんで、このさい、新しくしようってんで、話が持ちあがったわけさ」

ジョナはもうぶどう酒に酔っている。
「ジョセフは相変わらずいい腕をしているな。しかし、驚いたのはジーザスさ。お前は木を扱っている時は耳が聞こえなくなるんじゃないか?。シュッシュ、トントン、シュッシュ、トントンって、夢中じゃないか。ユダヤ一の大工になれるぞ。身内からりっぱな職人が出るのが俺たちの一番の誇りだからな。がんばれや。だが、あんまり大それたことを考えちゃいかんぞ。地元で平和に暮らすのが一番なんだからな。いいからぶどう酒を飲め。もう一人前の男だぞ、お前は」
ジョナはジーザスにぶどう酒を勧めた。

「はい。いただきます」ジーザスは素直に杯を受け取ると少し口に含み、「上等のぶどう酒ですね」と感想を述べた。
「そうだろう。お前はぶどう酒の味も分かるんだな。こりゃ、たまげた、驚いた。わっはっはっは」

無口なジョナサンも孫の自慢を始めた。この中では一番の年長者だ。
「うちのルークを見てくだされや。たくましくなったずら? はっは。こいつもこのまま修行を続ければ、いい鍛冶屋になれるんだがな。医者にならなきゃなんないだとさ。まあ、身内から医者が出るっていうのも鼻が高いがな。こいつは優しいからいい医者になるぞ。女衆にも受けがいいしな。はっはっは」
 
ゼベディの妻のサロメと娘のエスターも隣町からやってきて男たちのために給仕をしていた。エスターはルークと目が合うと、にっこりとえくぼを見せた。上機嫌な男たちの宴会は続いたが、子供たちは座って話をきいている退屈には耐えられない。すぐに子供達だけで集まって遊び出す。外に出る許しをもらうと我先にと家を飛び出していった。

満月がガリラヤ湖を照らしていた。初夏の夜風は心地よかった。少し離れた岸辺には隣町ベツサイダの家々の灯りが揺れていた。少年たちは誰が一番遠くに石を投げられるか競い合った。ピーターとジーザスの一騎打ちになったが、わずかにピーターが勝った。

遊びつかれた男の子たちは岸辺に並んで腰をおろして話し合った。
「ピーターの夢は何?」とルークが尋ねる。

「俺の夢はさ。この湖で魚をいっぱい取ることさ。それ以外は考えられないな。ここで生まれてここで死ぬのさ。まあ、メシアでも現れて一緒に来いって言われれば別だけどな。なんでも捨ててついて行くさ。でも、それはいつになることか分からないからな」

「アンドリューは?」とルーク。
「僕は…兄さんと一緒だよ。兄さんに負けないくらいのいい漁師になって、魚をいっぱい取るんだ。それしかできないよ。でも、世界中を見てみたいって気持ちはあるよ。ルークはギリシャに行ったことがあるんだろう? ギリシャに比べたらこの国は田舎に思えるでしょ?」
「そんなことないさ。この国はいい国だよ。ギリシャやトロアスにはないものがたくさんあるよ。ずっとこの国に住みたいくらいさ」
「住めばいいだろ」

「そうだよ。帰ることないさ」
ジミーとジョンが言った。

「ルークなら僕らと同じユダヤ人になれるよ。今では僕よりずっと『巻物』の言葉を知っているじゃないか。いつもエスターに言われるよ。『あんたもルークみたいにもっと巻物を勉強しなさい』ってね。でも魚捕りのことを考えるほうが楽しいのさ。あっ、ここだけの秘密だよ。でも魚だって神様が作ったものだからさ。考えたっていいよね」とジミーはみんなの同意を求めた。

静かに考え込んでいたジーザスが声を出した。
「きっと僕らには、なすべき仕事が神様から与えられるよ。魚を捕ることも立派な仕事だけど、人々をすなどって、神様に導くことのほうがもっと大切じゃあないかい? ジョン、君はずっと年をとるまで神様に与えられる仕事をするようになると思うよ」

ジーザスはジョンの肩に手を回した。六人の男の子たちは自然に肩を組んだ。やがて、この国の人々の心に、いや世界中の人々の心に、大きな光を灯すことになる六人の若者たちは一つになって歌った。ジーザスが始めに歌いだし、皆が続いた。

この国の神を賛美する歌だった。

またまた、「裁き」について②

またまた、また、裁きについてです。

前回、父(エホバ)と子(イエス)が、「望まれる」人たちを復活させる時が来ること、そして、「義者と不義者」つまりほとんどすべての人たちが復活するのではないかという見込みについて考えました。そして復活後、一部の頑迷な、矯正不能な者たちを除いて、大部分の人たちが、神さまの愛と公正を理解し、神さまを愛するようになります。

いいですね。これこそ、神さまの勝利であり、敵対者サタンの敗北だと思います。そうなってほしいなぁ~

でも、「それは豆太郎、あんたの理想であって、現実はそうはいかんよ。現に、神さまの厳しい裁きを予想させる聖句がたくさんあるではないか!」という声も聞こえてきます。

そうなんですよね。そこが、ボクの悩みのもとになっていることは本当です。

それらの聖句たちを、上記のような結論とどのように調和させたら良いのでしょうか?
まだ、ボクには分からないものもいくつかありますが、分かるかなと思うものを、一つ一つ「つぶして」いきましょうかね。そのうちに何かが見えてくるかもしれない。

ますは、イエスキリストのこの言葉。
(マタイ 7:13, 14) …狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通って入って行く人は多いからです。一方,命に至る門は狭く,その道は狭められており,それを見いだす人は少ないのです。

まず言えることは、これは「復活後の裁き」についての言及ではないということ。
イエスの言葉を聞いた人たちの多くが、イエスの弟子になって「命の道」を歩むようにはならないという現実に注意を引いたものではないかなと考えます。少数派になる弟子たちを励ますための言葉なのです。

ではでは、そのほかの聖句については、どのように考えたら良いのでしょうか?

神さまの裁きが「厳しい」ものであることを思わせる聖句の多くは、神さまに敵対行動をとる「諸国民」への裁きと関連されて述べられています。「神の民」に対して敵対行動をとる「諸国民」を、神さまは厳しく裁かれるのです。古代において、「神の民」は「イスラエル」でした。「イスラエル」がキリストに対する不信仰ゆえに捨てられてしまった後には、「神のイスラエル」あるいは「霊的なイスラエル」として、「クリスチャン」がその立場を占めるようになりました。

分かりやすい例を挙げれば、モーセの時代、エジプトは神の民を奴隷にして迫害しました。結果として、エジプトには「十の災い」がもたらされ、その後、神の民を追跡したファラオの軍隊は「紅海」の中で溺死してしまいます。こうした出来事は当時の世界に、「エホバ」こそ真の神であることを広く知らしめる結果になりました。

エホバはモーセを通して、エジプトの王ファラオにこのように告げます。
(出エジプト記 9:15, 16) …わたしはすでに手を突き出してあなたとあなたの民を疫病で撃ち,それによってあなたを地からぬぐい去ることもできたであろう。だが,実際には,この目的のためにあなたを存在させておいた。すなわち,あなたにわたしの力を見させるため,こうしてわたしの名を全地に宣明させるためである…

実際に、イスラエルが救出された後には、イスラエル人ではないエテロ(モーセの妻の父親)はこう言いました。
(出エジプト記 18:10, 11) …「エホバがほめたたえられるように。あなた方をエジプトの手から,またファラオの手から救い出し,この民をエジプトの手の下から救い出されたのだ。彼らが[民]にせん越に振る舞ったこの事から,今わたしは,エホバが[他の]すべての神々に勝って偉大な方であることをよく知った」。

良く考えてみると、紅海で滅んだのは、ファラオとその軍隊でした。一般のエジプト人たちは、「十の災い」に苦しみましたが、死ぬようなことはありませんでした。むしろ、生きて、「エホバ」の力の証人となりました。

聖書の黙示録(啓示の書)にでてくる「ハルマゲドン」に関する記述は、このエジプトでの神さまの裁きとよく似ています。このたびの敵とは「全地の王たち」です。
(啓示 16:16) …そして,それらは[王たち]を,ヘブライ語でハルマゲドンと呼ばれる場所に集めた。

神さまに敵対する「王たち」とその軍勢は、厳しく裁かれ、まことの神が誰であるかが明らかにされるのです。
(啓示 19:17, 18) …わたしはまた,ひとりのみ使いが太陽の中に立っているのを見た。彼は大声で叫び,中天を飛ぶすべての鳥に言った,「さあ,来なさい,神の大きな晩さんに集まれ。王たちの肉,軍司令官たちの肉,強い者たちの肉,馬とそれに乗る者たちの肉,そしてすべての者,すなわち自由人ならびに奴隷および小なる者と大なる者の肉を食べるためである」。

斜体にした部分は、「すべての者」とありますが、前後の文脈から、これは軍勢の中の、その他の「歩兵」のような働きをする「すべての者」のことではないのかな、と考えています。

要するに、将来のある時点で、神さまの支配を望まず敵対行動をとる「諸国民」に対する「厳しい」裁きを行なわれます。でも、それは「世の終わり」という言葉が一般に連想させるような、「地球」の終わりや「全人類」の終わりを意味するのではありません。真の神が誰であるかをはっきりとさせる「戦い」なのです。それは確かに、長らく続いた人間の支配を終わらせますが、続いて神さまの支配する新しい世界を招来することになるでしょう。

(ペテロ第二 3:13) …しかし,[神]の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります。

そしてですね。ここからが大切なのですが、エジプトで滅んだファラオの軍隊に属していた人々や、ハルマゲドンで敵対勢力に組していた人々であっても、無知ゆえに行動していた人たちに関しては、「復活が無い」とは決して誰も言いきれないということです。

神さまとイエスキリストが復活を約束している、「望まれる」人がいったい誰なのかを、ボクらは正確には知らないのです。

だからですね。分かってい頂きたいのですが、ボクは、決して神さまの裁きを「薄めよう」としているのではありません。ただ、「憐れみの神」である父と、父によく似た子であるイエス・キリストによる寛大な裁きを、心から願っているだけなのです。

だから、またまた、こんな記事を書いているのです。全く、舌足らずな記事であることはわかっていますが、またまたまた同じようなテーマで書くときまで、そこには目をつむってくださいませ。

またまた、「裁き」について

またまた…と言うのは、「裁き」と言うテーマは常にボクの思いの中にあるので、これまでも何度も書いてきたからです。

参考に→「義者と不義者の復活」
→神さまの裁きは厳しいものか?
→地獄なんて、ないよ!②公平な裁き?
→粋な裁き②
→粋な裁き①

それなのに、またまた、考えたくなってしまったのです。

神さまの裁きは「厳しい」のか? それとも「憐れみ深い」のか?

今回は、具体的な聖書の言葉実例に基づいて、あれこれへタな考えをこねくり回してみようという趣向です。いつものように、思いつくまま気の向くままに、パンセは進むと思います。たぶん、複数回になるかな。

●まずは、寛大は裁きになるとの印象を与える聖句の例。

(使徒 24:15) …そしてわたしは神に対して希望を持っておりますが,その希望はこれらの[人たち]自身もやはり抱いているものであり,義者と不義者との復活があるということです。

(テモテ第一 2:4) …[神]のご意志は,あらゆる人が救われて,真理の正確な知識に至ることなのです。

(マルコ 9:41) …あなた方がキリストのものであるという理由であなた方に一杯の飲み水を与える者がだれであっても,あなた方に真実に言いますが,その者は決して自分の報いを失わないでしょう。


●次は、裁きは厳しく、救われる人は少ないとの印象を与える聖句の例。

(マタイ 7:13, 14) …「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく,それを通って入って行く人は多いからです。一方,命に至る門は狭く,その道は狭められており,それを見いだす人は少ないのです。

(ペテロ第一 4:18)  「そして義人がかろうじて救われてゆくのであれば,不敬虔な者や罪人はどこに出て来るだろうか」。

(ゼパニヤ 1:18~ 2:3) …[神]の熱心の火によって全地はむさぼり食われる。[神]は地に住むすべての者の滅び,まさに恐るべき[絶滅]をもたらすからである」。 ……地の柔和な者たち,[神]の司法上の定めを守り行なってきたすべての者たちよ,エホバを求めよ。義を求め,柔和を求めよ。恐らくあなた方はエホバの怒りの日に隠されるであろう。


ふむふむ、どうも困ったことですね。相反するように見える聖句たちをどのように理解したらよいのでしょう?

今までボクは、神さまの「憐れみ」の大きさに期待して、公正を保ちつつも大いに「寛大な裁き」になることに信頼を置いてきました。そのことはこれからも変わりません。

だって、罪に囚われてしまった人々を救うために、大切なみ子を遣わして、その命を贖いとして与えてくれたんですからね。この贖いの大きな力を、ほんの少数の人にしか適用しないなんて考えられませんよね。地球上のほとんどの人々に救いが広がることが一番妥当なやり方だと思うのです。

でもでも、それはあくまでもボクの勝手な理想であって現実とは違うのかもしれません。

「厳しい裁き」を予想させる聖句たちは、ほとんどの人たちが滅びるような印象になっているのではないでしょうか?
これらの聖句ををどのように理解し、神さまの「憐れみ」に調和させたらよいのでしょうか?

正直に言って、これをすっきりと解決することはボクの手には余ることなのですが、手掛かりのようなものは見えています。
以下、舌足らずな説明を展開してみたいと思います。

…考えてみると、厳しい裁きを予想させる聖句は皆、その時に「生きている人」にあてはまりますね。人口的にはずっと多いはずの、すでに「死んでしまった人」には及びません。ですから、生きている人の「裁きの時」には、それにふさわしい極悪非道な人は安楽な生活をした後に、すでに死んでしまっていて、その場にいないなんてことも多いはずです。それでは、なんか、すっきりしませんよね…

「義者と不義者の復活」の記事で、こんなふうに書きました。
結論として…神さまは記憶の中にあるすべての人、「義者と不義者」を定められた時に復活させる…それが聖書の教えです。

聖書的に考えると、『死は罪の報い』なので、死んだ人はすべての罪を許されたことになります。ですから、神さまが記憶に留め、復活させた人たちは、生前に「義者」とみなされた人であれ、「不義者」とみなされた人であれ、罪はもはや持ってはいないのです。復活後に、いわば「再教育」された後に、どんな人になり、どんな行動を選択するのかに基づいて、「救い」か「裁き」かが最終的に決定します。

これがイエス・キリストの次の言葉の意味ではないでしょうか?
(ヨハネ 5:21, 22) …というのは,父が死人をよみがえらせて生かされるのと同じように,子もまた自分の望む者を生かすからです。 父はだれひとり裁かず,裁くことをすべて子にゆだねておられるのです。

(ヨハネ 5:28, 29) …このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼(子)の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことを習わしにした者は裁きの復活へと[出て来るのです]。

つまり、父である神さまも、子であるイエスも、ほとんどすべての人である「義者と不義者」を復活させることを望まれるということですね。そして、復活後に「良いことを行なった」のか、「いとうべきことを」行なったのかによって、最終的に「命」か「裁き」かが決まります。

ここで、思いに留めなければならないことは、明らかに矯正不可能と父と子が判断した人たちに関しては、復活がないという可能性です。父と子は、望まれる人を復活させるのであって、すべての人を復活させる責任も義務も負ってはいないのです。復活はひとえに、父と子の「憐れみ」にかかっているのです。

ボクらは、だから、自分が父と子の眼から見て、復活させたいと思う人なのかどうか、ということに真剣に心を砕かなければなりませんね。現在、クリスチャンではない人でも、良い人はいっぱいいるでしょう? みんな、神さまとイエスは覚えていますよ。大丈夫。大丈夫。

でも、神さまの「憐れみ」に付け込んで悪事を行なう人には、たとえその人が表面上はクリスチャンであったとしても、復活は保証されないと思います。

以上の説明は、冒頭の●寛大な裁きになるという印象を与える聖句と良く調和するでしょう?
ここでの「裁き」は復活後の裁きを意味しています。


さてさて、ではでは、●裁きは厳しく、救われる人は少ないという印象を与える聖句をどのように考えたら良いのでしょうか? 例えば「ハルマゲドン」の裁きとは、どういうものなのでしょうか?

それはまた、次回のパンセで考えたいと思います。現在、病み上がりのような状態で、集中力が続きません。今日はもう、寝ます。おやすみなさいませませ。

敵を見失わないように

クリスチャンにとっての「敵」とは誰だろう?

それはやっぱり、ボクらを神さまから引き離そうとしている「サタン」でしょう。

(ペテロ第一 5:8) …冷静さを保ち,油断なく見張っていなさい。あなた方の敵対者である悪魔がほえるライオンのように歩き回って,[だれかを]むさぼり食おうとしています。

いつの間にか本当の「敵」を見失ってしまい、仲間であるはずの「組織」を自分の「敵」のようにみなしてしまうことがありますか?

「組織」は本当に「敵」なのでしょうか?
いえいえ、「味方」なのではないでしょうか?

イヌワシ


「イヌワシ」は大好物の「岩だぬき(ハイラックス)」を襲う時、太陽を背にして飛んでくるそうです。
でも、「岩だぬき」の目には太陽光線をカットする特殊な膜が備わっているため,目を傷めずに太陽を直視できます。

岩だぬき


ボクらも眩しさに目がくらんで、「敵」を見失わないようにしたいですね。

サタンは、ボクらが神さまを忘れさえすれば良いのです。あとはどうなってもかまわないのです。

悔しいじゃないですか! 何があっても、神さまへの愛と信仰を失わないようにしましょう!

「スローライフ」のすすめ

ウィキペディアより
スローライフ(Slow Life)とは、生活様式に関する思想の一つである。ファストフードに対して唱えられたスローフードから派生した考え方で、大量生産・高速型のライフスタイルに対して、ゆっくりした暮らしを提案するもの。Slow livingに相当する和製英語である。


ゆっくりした暮らし…いいですね。将来の「楽園」では、まさに「スローライフ」なのでしょうね。
「エデンの園」でも、スローライフなんて言葉も生まれないほどに、ゆっくりした暮らしが自然な生き方だったのでしょう。

もちろん、スローライフとは何もしない、だらだらした生活のことではないと思います。なすべきことを持って、着実に成し遂げることは満足感を得るためにも欠かすことができませんからね。

さてさて、ではでは、今からスローライフをしたらどうなんだろう?…というのが今回のパンセです。

理想的には、今でも田舎での自給自足の、ゆっくりとした生活ができたらいいのだと思います。

クリスチャンには宣べ伝える活動もあるし、そんなに人里離れた田舎に住むことはできない、なんて声が聞こえてきそうですが、じっさいに人里離れた区域で頑張っている人たちが聞いたら気を悪くするかもしれませんね。

畑仕事ばっかりしてられない、なんて声もありそうですが、畑仕事ばっかりして、つまりそれで生計を立てているクリスチャンもたくさんいると思いますので、それも失礼な言葉になってしまうでしょう。

とはいえ、スローライフには「田舎」や「畑」が不可欠というわけではないですよね。

例えば定年後のご夫婦が、物価の安い国に移り住んで、聖書を宣べ伝える活動に邁進しているなんて話を聞くと、うらやましいですね。ええなぁ~。この場合は、スローライフと宣教活動を両立させていますね。まあ、他の人には分からない苦労もあるのかもしれませんが。

でもでも、たいていの人にとって(ボクにとっても)、本物のスローライフは今の人生ではかなわぬ夢ですね。いろいろな事情でそうすることができません。やっぱり「楽園待ち」になってしまいます。

いろいろな事情のトップにくるのが、お金の問題でしょうか?

忙しく働かないことには生きていけないんじゃよ~!!…by 豆太郎

仕方ないので、クリスチャンにとって精神的な意味での「スローライフ」とはどんなものなのだろう?…ということを考えてみたいと思います。


まずは、スローライフの大敵である、「忙しさ」ついて。

●忙しさ
好きなことを夢中でやっている時は、たしかに「忙しい」状態だと思うけど、ストレスはあまりたまらないですよね。
でも、嫌いなこと得意でないことを「忙しく」しなければならい状態の時は、ストレスがたまりまくります。

もう、いや~、やめたいっ!

企業戦士がうつ病になったり、自律神経の変調をきたしたり、自殺したり、なんていうことが起きます。

ですから、「忙しい」ことそれ自体は悪いことではなくて、何に忙しいのか?ということを良く考える必要があるのではないでしょうか?

(コリント第一 15:58) …わたしの愛する兄弟たち,あなた方の労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから,堅く立って,動かされることなく,主の業においてなすべき事を常にいっぱいに持ちなさい

この言葉は、神さまのために「なすべき事」をたくさん持つことの喜びを強調していますが、決して忙し過ぎることを勧めているわけではないと思います。

もし、宣教などの、クリスチャンとしての活動忙し過ぎて、疲れ過ぎているとか喜びを失っているというのであれば、自分のスケジュールを考え直してみる必要があるでしょう。「立場」や「特権」なるものにしがみつくのはお勧めできません。

ボクの場合、バプテスマを受けてから42年間くらいになるのですが、そのうち18年間くらい「開拓奉仕」という宣教活動をしていました。連続ではなくて、「開拓者」になったり降りたりしています。月ごとの「補助開拓奉仕」もずいぶんしました。できる年はやる、できない年はやらない。できる月はやる、できない月はやらない。というふうな具合でした。

「開拓奉仕」は、そんなやり方が一番いいのではないかなと、自分の経験から思います。まじめ過ぎる兄弟姉妹たちは「休む」ことを知らないで続けて、体を壊したり、喜びを失ったりしてしまうかもしれません。

世俗の仕事が忙し過ぎるということもありますね。好きな仕事であるのならばそれでも大丈夫ですが、たいていは必要に迫られて仕事をしていますから、働き過ぎには注意しなくてはなりません。

やっぱり、イエスの言葉を良く考えて、忙し過ぎないようにする必要があるのかな。

(マタイ 6:31‐34) …思い煩って,『わたしたちは何を食べるのか』,『何を飲むのか』,『何を身に着けるのか』などと言ってはなりません。これらはみな,諸国民がしきりに追い求めているものなのです。あなた方の天の父は,あなた方がこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです。  「ですから,王国と[神]の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これら[ほかの]ものはみなあなた方に加えられるのです。それで,次の日のことを決して思い煩ってはなりません。次の日には[次の日]の思い煩いがあるのです。

この言葉はまさにスローライフのススメですね。

とは言っても、「思い煩って」しまう気持ち、よく分かります。ボクもそうです。最近もそうでした。仕事がうまくいかなくて、ストレスいっぱいでした。でも、神様に頼って努力しているうちに、問題を解決することができました。ほんとに感謝です。

まとまらないけど、単純な結論ですが、何事も忙し過ぎないようにする、というのがスローライフの要諦でしょうかね。

●緊急感

(テモテ第二 4:2) …み言葉を宣べ伝え,順調な時期にも難しい時期にもひたすらそれに携わり…なさい。

この聖句の「ひたすら」に相当するギリシャ語は,緊急感を抱いて物事を行なうという考えを伝えているようです。とはいえ、これは、夢中で走り回るかのように行動することを勧めているのではありませんね。

「終わりが近い」というメッセージを聞く時、人はしばしば、あわてて無思慮な、あるいは極端な行動をとってしまいます。ゆっくりしていることに罪悪感を抱くようになってしまうのです。

むむ、これはスローライフの天敵ですな。

参考に→1975年

極端な「緊急感」に注意しなくてはなりません。何もかも打ち捨てて走り出すような「緊急感」はたいてい、平衡を欠き、後になって悔いるようなことを行ってしまうかもしれません。一方で、いつ、その日が来てもいいように、落ち着いて身辺整理をするような意味での「緊急感」は、世の富や物質や名誉に頼らない、クリスチャンらしい簡素な生き方をするために、不可欠なものです。


緊急感を保つ方法は…
①優先順位をしっかりと持つこと。
②できるだけ余分なものを持たない、余分なことを行なわない。
③とはいえ、平衡を保つことを忘れない。

…ということですかね。なんか、「ミニマリストのススメ」みたいになってきましたね。こんな記事書いてないで、部屋を片付けようかな。

まあ、結論としましては、「スローライフ」は忙しいクリスチャンであっても、精神的な意味では十分に実現できる生活じゃあないかなということです。ぜひとも、「ゆっくりとした暮らし」を今から始めようではありませんか!!



ファースト・ルーク(38)ガリラヤ湖

「過ぎ越し」が終わり、忙しく続く大麦の収穫が一段落するころ、小麦の収穫が低地から始まり、しだいに高地へと続いていく。ちょうどそのころ、「過ぎ越し」から数えて(正確には「過ぎ越し」の翌々日のニサン十六日から数えて)ちょうど五十日後に「ペンテコステ(五旬節)」と呼ばれる祭りが行われる。この地の一年を彩る主要な祭りは、秋の「仮小屋の祭り」と春の「過ぎ越し」、そして「ペンテコステ」だ。

この地の人々が信じる神の「優れた律法」の一つの特徴は、いたるところに貧しい人々への配慮がされているところだろう。大麦や小麦の収穫のときに、畑の端のほうまですべて刈り取ってはならず、取りこぼした穂を拾い上げてはならないと律法は規定している。やもめや父なし子などの貧しい暮らしを余儀なくされている人々は、誰にもとがめられることなく、この畑の「落ち穂」を収穫することができるのだ。

これはぶどうやオリーブなどの収穫にもあてはまる。ぶどうの収穫を終えた後は、再びその木から収穫を得ようと見回してはならず、オリーブの木を叩いてその実を取った後、取り残しを残らず集めることは禁じられているのだ。貧しい人々や外人居留者も、その「残りの物」を自由に集めることができる。この律法は貪欲さや私利私欲に走ることを厳しく戒めているのだ。律法は同時に怠惰にも厳しい。貧しい人々は富んだ人々から恵んでもらう、というわけではない。畑に行き、自分や家族のために汗を流して収穫しなくてはならないのだ。

「ペンテコステ」は人々が互いに分け合い、寛大さを示し、すべての与え主である神に頼ることを学ぶときとなる。そして、この祭りの終わりは再び暑い夏の始まりを告げる。野山の緑は日増しに色を濃くしてゆく。


毎日の仕事にも慣れてきて、てきぱきと動けるようになってきた孫の後ろ姿に、ジョナサンが声をかけた。ルークは汗をかきながら真剣に金床を叩き、鍛冶屋の使うはさみを作っていた。この作業小屋に入ることはルークの心にも誇りと喜びを与えるようになっていた。

「お前がこの家に来てから、もうすぐ一年になる。ここでの生活にもだいぶなじんできたな」
「はい。でも、もう一年がたつなんてはやいなぁ。忙しかったけど、すごく楽しい日々でした。ここに来て本当に良かったと思います」

「お前の『巻物研究』もずいぶん進んだのじゃないか?」
「はい。正直に言って始めはこの国の神様を信じることができるかどうか自信がありませんでしたけど、巻物を全部読んだ今は違うんです。この国の神エホバが真の神に違いないって思えます。自分でも不思議ですけど、確かに僕は信じています」

「お前ほど熱心なやつはおらんよ。ジーザスを除いてはな。俺はお前にこの仕事を教えてきたが、ジーザスはお前に信仰を与えたな。あいつは、人に神への信仰を与えるために生まれてきた奴だよ。あいつは本当に神を「父」だと信じている。祭司や律法学者たちは律法の字面を教えるがな、ジーザスは律法の「心」をつかんでいる。ここだけの話だが、俺もジーザスを見て教えられてきたんだ。あいつは、アブラハムやモーセのような奴だな。あいつがメシヤだとしても俺は驚かないよ。あいつが大人になるまで俺は生きているつもりだ。神がこの国に注意を向けてくださる時を見るつもりだ」

ジョナサンの真剣な言葉にルークは体が震えた。
『ジーザスがメシヤだって? そうだ。きっとそうだ。いったいジーザスは何をするんだろう? 巻物に書いてある神の約束が果たされるときが来るんだろうか?』

          ◆

ジョナサンとルークは数日後、ガリラヤ湖畔の町カペルナウムへと旅立った。ピーターの父ジョナの家で、大きな改築が行われるので、鍛冶屋として呼ばれたのだ。大工のジョセフとジーザスも少し前から行っているはずだ。初夏の徒歩の旅は心地よいものだった。ルークは初めてこの道を逆にたどってナザレに向ったときのことを思い出していた。

あの時は冒険心もあったけど、心細かったな。母のダイナと自分を待ち受けている運命はどのようなものなのか、まるで見当がつかなかった。でも、今ははっきりとしてきている。自分の人生の行くべき道が見え初めている。

朝の薄暗い光が、真昼のまぶしい光に変わるように、ルークには世界がはっきりと輝きを持って見え始めていた。

ガリラヤの「海」は穏やかだった。地元の漁師たちの舟が岸から離れたところで網を打ち、大きな声を上げながら働いていた。豊かな漁場であるこの湖は、しかし、突然の嵐に襲われる。ヘルモン山から吹き降ろす冷たい風が、この湖の上で温かい空気と出合って、怒り狂うのだ。漁師たちはこの嵐をいつも警戒している。今までいくつもの舟が湖の底の泥の中に沈んだことだろう。失われた命も多い。

しかし、今日の湖面は穏やかだ。ルークはそこにいるはずのない姿を探した。輝く湖水を見つめながらたたずむ女性の姿だ。ルークはしかし、エスターの住む町に近いところにいることだけでも胸が躍っている。ガリラヤを包む光は、ルークの目に不思議な懐かしい光として感じられていた。

「ルーク。来たね」
元気に声をかけてきたのはピーターだ。一年の間にずっとたくましさを増していた。自信にあふれた若者だ。
「ピーター。元気モリモリ?」
ルークは、子どもたちの間のあいさつをした。
「モリモリさ。いつだってね。今日は大漁だずら。網が破れるんじゃないかと思ってヒヤヒヤしたくらいさ。後で取れたての魚を食べようぜ。おーい、アンドリュー、ルークが来たよ」

アンドリューはルークを見つけるとすごい勢いで走ってきて、一度は通り過ぎてしまった。「おっとっと」と戻ってきて言った。
「『ペンテコステ』で会っていらいだね。モリモリかい?」
「モリモリさ」
「あそこでジミーとジョンも漁をしているよ」

アンドリューが指差した先に、湖に浮かぶ小舟があった。少したくましくなった兄弟二人が手を振っていた。空の青さが目にしみた。

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豆太郎@

Author:豆太郎@
「遊び心」で始めた
架空の「聖書研究会」です。

基本信条10ヶ条

●エホバを信じる人に、なろう!・・・・ ●イエス、大好き!・・・・・・・・・・・・・・ ●地獄なんて、ないよ!・・・・・・・・・・ ●信仰/希望/愛に、あふれよう!・・・ ●死者の復活、うれしいな!・・・・・・・ ●千年王国は、近いよ!・・・・・・・・・・ ●贖いと罪の許し、ありがとう!・・・・・ ●永遠の命、最高!・・・・・・・・・・・・・ ●祈って祈って祈って、祈ろう!・・・・ ●聖書を読んで読んで、読もう!・・・

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