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神さまを信じて生きる幸福

クリスチャンの仲間や組織に「つまずいて」、神さまを信じること自体をやめてしまうなんて、
う~ん、もったいないな~、と思います。

ボクにとっては神さまを信じて生きることの幸福が一番大切なもの、価値あるものであって、人や組織はせいぜい五番目くらいの重要度なのです。良い仲間や組織は望ましいものですが、もしそれが無かったとしても、大丈夫なのです。

幸いなことに、心から神さまを信じて懸命に生きている素敵な仲間たちに恵まれていますけどね。

→神さまを信じることをあきらめないで!
→つまずきシリーズ①~⑥

人や組織は不完全なものなので、いつでも問題を引き起こします。それで当たり前なのです。
聖書はそのことを明らかにするために記録されたと言っても、そんなに大きく外れてはいないでしょう。

(コリント第一 10:11) …これらの事は例として彼らに降り懸かったのであり,それが書かれたのは,事物の諸体制の終わりに臨んでいるわたしたちに対する警告のためです。

神さまを信じて生きることの幸福について良く考えましょう。

そしたら、それを捨てるなんて考えられなくなる。

神さまがあってこそ、生きる意味が生まれるのではないでしょうか?
他の誰が愛してくれなくても、神さまは愛してくれる存在なのではないでしょうか?
その自覚がもたらす大きな安心感を味わいましょう!

心から神さまを信じて祈る時の清々しさよ! 嬉しさよ!
イエス・キリストの教えに出会えた喜びよ!

ちっぽけな人間のもたらす「つまずき」なんかに「つまずいて」なんていられません。
もし、うっかり「つまずいて」しまったとしても、また起き上がれば良いのです。

(箴言 24:16) …義なる者はたとえ七度倒れても,必ず立ち上がるからである。

「神さまに出会えたからこそ今も生きていられる」
異口同音にそのように話す友たちがたくさんいます。

神さまを信じて生きることの幸福を誰にも何にも奪われてはなりません。

もし、奪われそうになったら、豆太郎もちょっとは助けになれるかもしれませんから連絡してね。

イエスの教え⑦天の王国は近づいた

イエス・キリストの言葉…というと次のような言葉がすぐに思い浮かぶかもしれません。

「右のほほを打たれたら左のほほを向けなさい」
「明日のことを思い煩うな」
「自分にしてほしいと思うことを他の人にしなさい」
「野のユリを見よ。それらは労したり紡いだりしないが、神が衣を与えておられる」
「あなたの敵を愛しなさい」
「求めよ。さらば与えられん。たたけよ。さらば開かれん」
「狭い門を通って入りなさい。命に至る門は狭いのです」

……

こうした言葉は確かに含蓄のあるものですが、イエスの宣教の中心にあったものは、もっと「固い」ものでした。

(マタイ 4:17) …その時からイエスは伝道を開始して,「あなた方は悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」と言いはじめられた。

「天の王国」あるいは「神の王国」が近づいた、という表現は何度も繰り返された、イエスの教えの「主題」でした。

実は、原始キリスト教の教えから逸脱して大いに歪められた教えの一つが、「王国」なのです。

参考に→天国と王国

1世紀当時、イスラエル人が「旧約聖書」中の預言の成就としてその実現を待ち望んでいたもの、それが「王国」でした。

(イザヤ 9:6, 7) …わたしたちのためにひとりの子供が生まれ,わたしたちにひとりの男子が与えられたからである。君としての支配がその肩に置かれる。そして彼の名は,“くすしい助言者”,“力ある神”,“とこしえの父”,“平和の君”と呼ばれるであろう。ダビデの王座とその王国の上にあって,君としてのその豊かな支配と平和に終わりはない。それは,今より定めのない時に至るまで,公正と義とによってこれを堅く立て,支えるためである。実に万軍のエホバの熱心がこれを行なう。

ダビデやソロモンなどの歴代の王たちは「油注がれた者」という意味で「メシア」と呼ばれました。その系譜を継ぎ、長らく途絶えていた「ダビデの王座」に座る新たな「メシア」の到来を人々は待ち望んでいたのです。

文語訳では「君としてのその豊かな支配と平和に終わりはない」の部分は…
その政事(まつりごと)と平和とはましくははり(増し加わり)て窮(かぎ)りなし」となっています。

聖書研究者としてボクも「メシアによる王国」を待ち望む者になりました。文語のその言葉はボクの心を熱くしました。
「平和の君」であるイエス・キリストが王座に就き、この地上に本来の世界である「楽園」を回復すること、それがボクの希望の中心となっています。

(イザヤ 11:3‐9) …そして,彼は目で見る単なる外見によって裁くのでも,ただ耳で聞くことにしたがって戒めるのでもない。そして立場の低い者たちを必ず義をもって裁き,地の柔和な者たちのために必ず廉直さをもって戒めを与える。また,必ずその口のむち棒をもって地を打ち,その唇の霊をもって邪悪な者を死に至らせるであろう。そして義は必ずその腰間の帯となり,忠実はその腰の帯と[なる]。 そして,おおかみはしばらくの間,雄の子羊と共に実際に住み,ひょうも子やぎと共に伏し,子牛,たてがみのある若いライオン,肥え太った動物もみな一緒にいて,ほんの小さな少年がそれらを導く者となる。また,雌牛と熊も食べ,その若子らは共に伏す。そしてライオンでさえ,雄牛のようにわらを食べる。そして乳飲み子は必ずコブラの穴の上で戯れ,乳離れした子は毒へびの光り穴の上にその手を実際に置くであろう。それらはわたしの聖なる山のどこにおいても,害することも損なうこともしない。水が海を覆っているように,地は必ずエホバについての知識で満ちるからである。

もし、アダムとエバが罪を犯して、神さまの支配を退けるということがなかったなら、神さまはメシアを任命する必要もなく、「エデン」は全地球的に広がっていたことでしょう。ですから、メシアの王国の使命は失われたエデンを回復するというものなのです。

イザヤ書の描く「復楽園」の世界は、ボクの希望であり、理想です。他の何にも勝る希望じゃないかな。
「人が人を支配する」(伝道の書8:9)ことは、独裁であれ民主主義であれ、必ず差別され苦しむ人々を生み出してしまいます。ボクはもう、人の支配にはうんざりしています。

「天の王国は近づいた」というイエスの言葉を聞いた人たちの中には、例えばメシアが武力で憎きローマ帝国を滅ぼして、イスラエルに偉大な王国を樹立すると考えた人たちもいたのかもしれませんね。事実、イエスの弟子たちでさえも復活したイエスに対してこのように質問しました。
(使徒 1:6) 「主よ,あなたは今この時に,イスラエルに王国を回復されるのですか

イエスの答えはこうでした。
(使徒 1:7, 8) 「父がご自分の権限内に置いておられる時また時期について知ることは,あなた方のあずかるところではありません。しかし,聖霊があなた方の上に到来するときにあなた方は力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」。

「時」については「父だけ」が知っておられます。「子」であるイエスでさえその時点では知りませんでした。
弟子たちがなすべきことはイエスがメシアであるということの証人となって全地で宣明することでした。

それでは、「天の王国は近づいた」と言えたのはなぜでしょうか? それは「メシア」である「王」が任命されてそこにいたからでしょう。
確かに事態は進展していました。そして、当時イエスの言葉を聞いた人たちにとっては「メシア」に信仰をおき、「王」のために働くチャンスをとらえることができたのはその時だけだったという事情もあるでしょう。

21世紀のクリスチャンであるボクらにとって、「王国」はさらに近づいたということは間違いありませんね。
それでも、その実現がいつのことなのかはまだ分かりません。

今できることは、その時がいつ来ても良いように、イエスの弟子として「緊急感」をもって人生を過ごすことでしょう。
その人生は世の富や名誉に重きを置かない、「シンプルライフ」であり「スローライフ」なのだと思います。
それ自体でとても「素敵な生き方」なのではないでしょうか?

パラダイス

マインド・コントロールとしての進化論⑥生命誕生

トラピスト1惑星


米国航空宇宙局(NASA)は2月23日、地球から約39光年離れた恒星「トラピスト1」に、地球に近い大きさや質量をもつ惑星が7つあることを発見した、と発表しました。この7つの惑星には、どれも水が存在する可能性があり、さらにそのうち3つは、生命が生きるのに適していると考えられる領域(ハビタブル・ゾーン)の中にあるという。もしかしたら、「地球外生命」がいるかも!

夢とロマンがありますね!…??

…そんなふうに、水さえあれば生命が誕生するんじゃないかという考え方は、ボクらの思いに刷り込まれていますね。

たしか、高校1年生くらいまでは、ボクもそんなふうに考えていました。
神さまなんていないのだろうとも思っていました。

よくまあ、考え方が変わったもんですね。自分でも驚いています。
その驚きについて、このブログでも結構な数の記事を書いています。

→「進化なの?創造なの?」シリーズ

ボクらは素朴な疑問を持つべきなのだと思います。

「生命って、本当に偶然の力だけで発生するの?」

実はこの素朴な疑問に、ちゃんと論理的・科学的に証拠を挙げて答えてくれる人はいません。
すべての答えは憶測や希望的観測に基づいたものなのです。

進化論を扱うテレビ番組を見ても、そこには「奇跡が起きました」だの「なんと幸運なのでしょう」だのといった言葉のオンパレードなのです。

不思議ですね。これほど間違いのない真理だと宣伝され、多くの人に信じられているのに、進化論が真実である証拠を挙げよと問われると、検証に耐える証拠は一つも挙げられないのです。希望的な推測に基づいた「仮説」しか提出できないのです。

最近読んだ「生命誕生」という本でもやはりそうでした。
→「生命誕生」

「偶然」に頼ることができないとすれば、次に頼るものは意図を持った「知性」しかありません。
…とボクは思うのですが、どうでしょう? 他に何かありますかね?

さてさて、いまのところ地球以外には、広大な宇宙のどこにも、たった一つの生命でさえ発見できません。それに対して、地球にはまさに無数の、様々な形態の生命が活動しています。ボクもその一つです。

毎日毎日、身の回りにある自然や多種多様な生物を目にするとき、こう思います。
「すごいなあ。やっぱり神さまがいないなんて嘘だよな~。このすべてを、神さまなしで、いったいどうやって説明するんだ?」

今のボクには、「進化のロマン」はマインド・コントロール以外の何物でもないように思われます。

「創造のロマン」のほうがよほど魅力的であり、かつ科学的であると思うのです。

マインド・コントロールを解かれて、神さまを信じることができるようになれて本当に良かった!!
ありがとう、エホバ。

「エホバ与え、エホバ取り給う」

(ヨブ記1:21 文語訳)
我(われ)裸(はだか)にて母の胎を出(いで)たり 又(また)裸にて彼處(かしこ)に歸(かえ)らん
ヱホバ與(あた)へヱホバ取(とり)たまふなり ヱホバの御名(みな)は讚(ほむ)べきかな


この言葉、最近ボクの思いの中を駆け巡っています。

この言葉が語られた背景は、ヨブ記1章と2章を読めばすぐに理解できます。ヨブ記の3章以降は、とっても難しいので、とりあえず始めの1~2章と最後の42章だけ読めば十分ではないかな…

以前の記事も参考にどうぞ
→ヨブってすごい!
→ヨブってすごい!②
→ヨブの黙想
→信仰が必要です①

さて、なんで「ヱホバ與(あた)へヱホバ取(とり)たまふなり」という聖句がボクに響いているのか?

ボク自身に落胆させるような大きな出来事が降りかかってきているわけではありません。
気落ちしている信仰の友をどのように励ましたら良いのかについて、日々考えていると、このヨブの言葉が浮かんできたのでした。

つまりは信仰の原点に立ち返れということなのでしょうか。

ヨブの妻は心痛のあまりに口走りました。「神を呪って死になさい」と。
ヨブの友たちは口々に言いました。「神に仕えても無駄だ」と。

ヨブ自身も、神さまに忠節を持って歩んでいる自分に、このような災難が降りかかってきたのか、その理由を全く理解できませんでした。心の中は、なぜ?なぜ?なぜ?、という疑問符でいっぱいだったことでしょう。

それでもヨブは「原点」忘れませんでした。

命を含め、すべてのものは『エホバに与えられた』ものなのです。もし、『エホバがすべてを取り給う」としても、ボクらは何の異議申し立てもできる立場にいないのです。

自分自身の命も風前のともしびであった時の、次の言葉を噛みしめてみましょう。
(ヨブ 2:10) …わたしたちは[まことの]神から良いことだけを受けて,悪いことは受けないのだろうか

これはね。つまり、ヨブはこれまで神さまから受けてきたたくさんの「良いこと」をすぐに忘れる人ではなかったということなんではないでしょうか? 一見して、神さまから「悪いこと」を受けているような状況の時でも、ヨブは感謝の気持ちを忘れませんでした。

自分が神さまから受けてきた「良いこと」は何でしょうか?
これをたくさん思い出し数え上げることは大切だと思います。

何度も何度も考え続ける事が必要です。じっくりと考えることは信仰を育てるために欠かすことができません。
考えない人は、強い信仰を築けないのかもしれません。信仰ゆえの悩みはボクらを強くします。

時間はかかりますよ。インスタントな信仰は脆く崩れます。すぐに答えや解決策が与えられるわけではないですよ。

何年も考え続ける事を覚悟しましょう。

(ヤコブ 5:10, 11) …兄弟たち,苦しみを忍び,辛抱する点で,エホバの名によって語った預言者たちを模範としなさい。ご覧なさい,忍耐した人たちは幸福である,とわたしたちは言います。あなた方はヨブの忍耐について聞き,エホバがお与えになった結末を見ました。エホバは優しい愛情に富まれ,憐れみ深い方なのです。

そう、神さまは無情な方ではありません。ボクらもその『愛情と憐れみ』を「結末に」、深く理解することでしょう。

ファースト・ルーク(40)フーレ湖

フーレ湖

カペルナウムのピーターの家の改築は順調に進んだ。途中で、あのジョーブおじいさんも姿を見せて、手作りの立派な銀細工品を広い居間の飾りとして取り付けていった。

ジョーブがもたらした情報は、フーレ湖周辺にライオンが多く出没しているというものだった。ジョーブは白いライオンを見たと興奮して話した。
「今年はライオンにとっても当たり年だな。子どもがいっぱい生まれたのさ。だが、俺はフーレ湖のあたりにいるガゼルを探しに言ったのさ。最近はガゼルをペットにするギリシャ人がいるんだよ。たしかにあの立派な角には似合わない可愛い目は、なんていうか、キュートだがな。
gazeru.jpg

何しろ目の玉が飛び出るくらい高い値段でガゼルは売れるんだよ。俺もライオンは怖いが、お金の魅力にゃかなわないさ。フーレ湖をもっと北に上っていったあたりにガゼルがいたのさ。運のいいことに子育ての真っ最中さ。かわいい瞳の子どもがいたね。俺だって母親から子どもを奪っちまうことには心が痛むさ。でもな。子どものガゼルを殺そうってんじゃないんだ。考えようによっては、ガゼルだってギリシャに行って広い世界を見る事だってできるんだ。悪い話じゃあるまい? ここらの田舎じゃ食べられないおいしい食べ物だってあるわな。とにかく俺は子どものガゼルを捕まえたよ。始めは少し暴れたが、すぐに懐いてきた。俺は可愛くなっちまってな。別れるのがつらくなっちまったんだ。結局、ガゼルは俺の娘の家にいるよ。孫娘が可愛がってる。すごい人気者でな。ガゼルがだよ。ヤギみたいに散歩させるんだが、すぐに黒山の人だかりができるのさ。俺も少しはいいことをしないとな。まあ、しかし、ガゼルを捕まえる時にライオンと鉢合わせしちまってさ。大きなたてがみのある真っ白いライオンだったよ。ライオンキングだな。こんなに長いつめを立ててさ。おいらの首の後ろを引っかいたのさ。俺は一目散に逃げてなんとか助かったんだが、この通りさ」と首の後ろにある爪の後をルークに見せた。
白いライオン
 
ジョナサンが目配せした。ルークも笑ってうなづいた。その傷は以前に巨大な鳥に襲われた時にできたものとして見せてもらったことがあったのだ。

「お前たち、俺がほらを吹いてると思っているんだろう?」
ニヤニヤしながら、ジョーブは首の反対側を見せた。そこにも大きな傷跡があった。
「こっちが、例の、へんてこな大きな鳥に付けられた跡さ」

ジョナサンとルークは目を丸くして驚いた。

注:ヨルダン川の三つの源流がフーレ盆地でいったん集まってできた浅い湖がフーレ湖です。そこからヨルダンの流れは一つになってガリラヤ湖へと向かうのです。この地域はヨーロッパからアフリカに渡る鳥たち(サギ、コウノトリ、ペリカンなど)の中継地になっていました。ライオン、カバ、オオカミ、イノシシなどの生息地でもありました。近代になって干拓が行なわれた結果、フーレ湖は現存しません。それだけに想像好きなボクには、たまらない魅力を持った場所になっています。

「権力は腐敗する」

「権力は腐敗する」…しばしば耳にする言葉ですね。

英語はこのようなもののようです。
"Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely."

「権力は腐敗しがちなものだ、そして絶対的権力は絶対に腐敗する」…というふうな訳になるでしょうか。
ふむ、下線部だけみると、すべての権力は必ず腐敗する、という意味合いではないようですね。

えっと、まあ、細かいことは置いておいて、この言葉の正しさは歴史の中で繰り返し証明されてきました。
権力の腐敗を防ぐために「三権分立」が考えられたようです。あんまりうまくいってはいないようですがね。
ちょうど今、テレビで「警察」権力の内部の不祥事について取り上げています。(橋本・羽鳥の…)

もちろん、この場合の権力とは人間の権力のことです。

神さまの権力は含まれません。神さまの権力は腐敗とは無縁のものです、
だから、聖書は神さまに「三権」すなわち「司法権、立法権、行政権」を帰しています。
(イザヤ 33:22) …エホバはわたしたちの裁き主,エホバはわたしたちの法令授与者,エホバはわたしたちのだからである。

さて、ここからが今回のパンセです。

神さまが人間に権力を与えた場合、それは腐敗するのか?

答えは明らかです。聖書の記述が繰り返し裏付けています。

答えは…腐敗する…なのです!!

例えば古代のイスラエル王国の歴代の王たちについて考えてみましょう。

初代の王「サウル」は、最初は謙虚な若者でしたが、やがて権力にこだわる嫉妬深い王になってしまいました。
二代目の王「ダビデ」は生涯、エホバに忠実な王でしたが、その支配には権力の乱用もありました。
人妻と姦淫を犯し、その夫である無実の兵士を死に追いやり、その妻を自分の妃としてしまったのです。

詳しくは→許すことによってしか前に進めない

その後の王たちの大多数は「悪い王」とみなされました。幾人かは呆れるほどの極悪人でした。少数の「良い王」たちがいましたが、彼らも例外なく大小の失敗をし、民は苦しい目に合いました。

実はこうした結果になることを、神さまはあらかじめ警告していました。民が初代の王を求めた時のことです。
(サムエル第一 8:10‐18) …それでサムエルは,彼に王を願い求めていた民にエホバの言葉をことごとく述べた。そして彼は言った,「これがあなた方を治める王の当然受けるべきものとなります。すなわち,あなた方の息子を[王]は取り,これを我がものとしてその兵車に乗せ,その騎手の間に[置く]でしょう。……また,あなた方の畑やぶどう園やオリーブ畑,その最も良いものを取り,実際,[それを]その僕たちに与えるでしょう。また,あなた方の種をまく畑やぶどう園の十分の一を取り,[それを]その廷臣や僕たちに必ず与えるでしょう。また,あなた方の下男やはしためや,あなた方の最も良い牛やろばを取り,それを自分の仕事のために必ず使うでしょう。あなた方の羊の群れの十分の一を[王]が取り,あなた方も僕として彼のものになるでしょう。そして,その日,あなた方は,自分たちのために選んだあなた方の王のゆえに必ず泣き叫びますが,その日,エホバはあなた方に答えてくださらないでしょう」。

最近学んだ、アハブ王と妻のイゼベルはひどいですね。理不尽な目にあったナボテとその家族への公正は、やはり復活を待つしかありません。
→理不尽を埋め合わすもの①
→理不尽を埋め合わすもの②

さてさて、歴代の王たちの時代は、まあ、あきれちゃうけども、そんなもんだとして諦めましょう。

問題は「クリスチャン」の時代です。

ローマの国教になって以来の「キリスト教会」が権力をほしいままにしてきた歴史は誰でも知っていることだと思います。
でも、まあ、それは本当のキリスト教じゃないから仕方ないとあきらめましょう。

ボクのこだわっている1世紀の「原始キリスト教」時代はどうだったのでしょうか?
神さまがクリスチャン時代に与えた「権力」と呼べるものは、それほどありません。

何しろイエス・キリストの教えは…「裁いてはなりません」とか「偉い人は奉仕する人です」とか「威張るものになってはなりません」などというものなのですからね。

それでも、強いて言えば「使徒」と呼ばれる立場や「長老」や「監督」と呼ばれる立場があります。「会衆」を機能させるために、こうした立場で奉仕する人は必要なものです。しかし、残念ながら、この「権力」もまた、乱用される傾向にありました。黙示録(啓示)1~3章の中の「七つの会衆」に宛てて語られたイエス・キリストの言葉を読むと、「腐敗」が徐々に忍び込んできている様子を感じ取ることができます。。

さてさてさて、それじゃあ、ボクらはクリスチャンとして仲間と共に生きていくために、どうしたらいいんでしょう!?

そうだ、どんな人にも「権力」なんて与えなければいいんだ!!
「あなた方は皆、兄弟です」とイエスも言われたじゃないですか。

会衆を運営していくために、「エルダー(年長者・長老)」は必要かもしれないけど、彼らには「権力」は与えません。特に「裁く」権限は与えません。クリスチャンとしての長い経験や知恵を生かして、ボクらを「教えて」は欲しいし、深く尊敬はしたいけれど、「権力者」にはなってほしくない……

そんなふうに、いろいろと黙想した結果、我が想像上の「原始キリスト教研究会」には、各地の「ハウス(会衆)」に「エルダー」という立場の人がいて聖書の討議を司会したり、講話をしたりはするけれど、普段は「雑用係り」のような立場にあります。面倒なことを喜んでやってくれる「世話役」や「おじいちゃん」みたいなものですね。じっさいに、「世話役さん」とか「グランパ」なんて呼ばれています。
→おおらかな組織②サンキュー、グランパ

……というわけで、今回のパンセは、「権力は腐敗する」ので、人間には誰にも「権力なんて与えなきゃいいんだ!!」という乱暴な結論になりました。 m豆m

三大異端と三位一体

統一教会、モルモン教、エホバの証人とは関係ありません

キリスト教会のパンフレットなどで良く見かける言葉です。

この三つのグループは「三大異端」などとも呼ばれているようです。

(以前の記事も参考にどうぞ→三大異端と霊魂

「異端」と認定される最重要な要素は、「聖三位一体」の教理を否定しているかどうか、と言うことのようです。
ボクには、西暦4世紀ごろから徐々に定着してきた「三位一体」こそが真の「異端の教え」だと思うのですがね。

プラトンなどのギリシャ哲学の影響を強く受けて成立した「三位一体」は、なにか洗練された、高級な教理のように思うのでしょうか、これを理解できない人々は『愚かで、頭の悪い、劣った者たち』であるという論調もよく見られます。

ギリシャ人は自らを「ヘレネス(ヘレンの子ら)」と呼び、他の民族を「バルバロイ」と呼んで蔑んだのですが、「正統的な」キリスト教会も、異端とみなす人々を、高級な「聖三位一体」を理解できない「野蛮人」のように言ってきました。

なんだかなぁ~

ボクは「地獄」の教理の次に「三位一体」が嫌いです。父と子の間の美しい愛の繋がりを、奇妙な自己愛(ナルシズム)に変えてしまうからです。「父と子が同じだ」と思うならば、「父と子の間の愛」という、聖書の一番「美味しい」ところに気付けないことになります。残念で、かわいそう。

→地獄なんて、ないよ!①

ボクはキリストの持つ「神性」を否定しているわけではありません。キリストは確かに「神のような」方です。父を尊敬する子は父によく似た人格を身につけます。そもそも父と子はそのようなものです。「同等」だの「同一」だの、「父でもあり子でもある」とか「神でもあり人でもある」などと強弁する必要はないはずです。すごく無理がある。

「三位一体」が分かりにくい、すなわち説明しにくい教理であることは誰でも認めることでしょう。論理的には説明できないので、感情的にならざるを得ません。聖霊の働きによって理屈抜きに悟ることができる「奥義」なんだ、と威張るしかありません。

…とにかく神さまは「三つの位格(ペルソナ)」をお持ちなんです。それを信じられないなんて言っちゃダメ! そういうものなんだと信じることが大切なんです。聖霊様が明らかにしてくださいます…という感じでしょうか?

さて、三大異端は非・三位一体では共通しているわけですが、否定の仕方はそれぞれ違います。
どう違うのか? 簡単にまとめてみましょう。

まずは、ボクが一番よく知っている「エホバの証人」から…
(他の二つについては基礎的なことしか知らないので誤解があるかもしれません)

●エホバの証人
「父」すなわち創造者である神は唯一無二の方。その他のものはすべて創造されたもの。神が最初に創造された「初子」が「御子」であるイエス・キリスト。神は「御子」を通して他のすべてのものを創造した。「聖霊」は神の力の表れであり、活動力のこと。

●統一教会
「父」についてはエホバの証人と同じ。「子」であるイエス・キリストはマリアと祭司ザカリアの間に生まれた「私生児」。「聖霊」は女性神であり、イエスの妻のような存在。

●モルモン教
「父」なる神は、元々は人間であり、天でも肉体を持った存在。「子」は父なる神により産み出され肉体を持っている。「子」は万物を創造した。「聖霊」は「父」と「子」と異なり、肉体を持たない存在。

やっぱり、統一教会とモルモン教については、良く理解できません。理解しようと、時々努力してみるのですが…

ボクが若いころに知り合った統一教会の人々やモルモン教会の若き宣教師たちは、みんなまじめで良い人たちでした。キリスト教会の人たちも良い人がいましたが、幾人かはこちらを見下す高慢さを感じさせました。やはり「正統意識」がそうさせるのでしょうかね。

統一教会やモルモン教会の教えの中には、ボクにはとっても奇異に感じられるものがありますが、「三大異端」として一括りにされているという点でシンパシーを覚えます。機会があればまた、話し合ってみたいなと思っています。

あっ、キリスト教会の人たちも嫌いじゃないですよ。同じ目線で互いに敬意を持って語りあえる人ならば、喜んで話し合ってみたいですね。

神さま探し⑤数学

「数学」にずっと興味を持っています。いや、憧れを抱いていると言った方が正解かな。

このブログでも例えば小説では「博士の愛した数式」、エッセイでは「世にも美しい数学入門」、ノンフィクションでは「フェルマーの最終定理」などを取り上げてきました。

→数学者になりたいっ!
→人間…神さまの傑作品④美しさを求める心

勉強としての数学が得意だったいう意味ではありません。中学時代には公式を覚えないとならないことにつまずき、高校時代では数学で「赤点」をとってしまい卒業が危うくなったこともありました。

それなのに、嫌いにはなれないのです。微分だの積分だの、サインだのコサインだのという世界をのぞき見るだけで頭がくらくらしてしまうのに、「いいな~、数学って」思うのですから、やっぱり単なる憧れなんでしょうね。

さて、今回の「神さま探し」として、「数学」をあげたいと思います。

宇宙という書物は数学と言う言葉で書かれている」と、400年も前に地動説を唱えたガリレオ・ガリレイは言ったそうです。その後も宇宙のしくみは数学によって解かれてきました。とはいえ、調べれば調べるほど、新たな謎が立ちふさがるような状況のようです。

→「宇宙は何でできているのか」①
→「宇宙は何でできているのか」②

宇宙が数学の法則に支配されていることは、まぎれもなく神さまの存在の証明だと思うのですが、皆さまはどのように考えられるでしょうか? 宇宙がカオス(混沌・無秩序)ではなく、コスモス(秩序)であること。この事実だけで、創造者がいることの十分な証明だとボクは思います。

だから本当は科学は「神さま」=「創造者」を前提として研究されるべきなのです。ところが、どういうわけか、「神さまはいない。すべては偶然の結果だ」という前提でスタートする科学者がほとんどのようです。いやいや、それではスタートも切れてはいない。無駄なところをぐるぐると走りまわっているとしか思えません。もったいないなぁ~。

さてさて、今日のテーマは数学でした。

●「三角形の内角の和は180°である」…どんな三角形だってそうなのである。どんなに尖がった奴だって、どんなに平べったいやつだって、何が何でも180°なのである…これって、不思議で、「美しい」と思いませんか?

だからこんな問題も簡単に解けるのです。
三角形


●「1+3+5+…+(2n-1)=n×n (nの2乗)
奇数の和は必ず、ある数の2乗(平方数・四角数)になるのであ~る。
四角数

やっぱり不思議で美しい。

なんか、神さまはご自分が考えたパズルを解いてほしくて、人間を造られたのではないかなぁ。

子どもの頃、「頭の体操」という本がベストセラーになっていて、ボクも問題を解くのが大好きでした。まあ、数学とは関係ない問題が多かったと思うけどね。

たしか、「大勢の人たちが歩いているスクランブル交差点に、一台の大型トラックの運転手が、ガーッて走ってきて交差点を横断したんだけど、誰も怪我しなかった。それはなぜ」みたいな問題を覚えてます。

むむむ、話が完全に脱線していますね。

ボクが言いたいことは…こんな感動でした↓↓

神さまの定めた数学の法則によって、ボクラの住む世界は隅々まで、なんて美しくて、なんて不思議なんだぁ~!

「初心忘るべからず」(世阿弥)

室町時代に「能楽」を大成させた世阿弥(ぜあみ)と言う人の言葉です。

①「何事においても、始めた頃の謙虚で真剣な気持ちを持ち続けていかねばならないという戒め」などと説明されます。

②「初心者のころの、未熟でみっともなかった自分の姿を忘れないように」という意味もあるとの説明もありました。

②の意味と似ているかも知れませんが…
ボクが聖書を学び始めたのは14才でしたので、集会に出席し始めると、クリスチャンの兄弟姉妹たちから、「○○君」と名字に「くん」をつけて呼ばれました。なかなかバプテスマを受けない人だったので、21才になっても「○○君」と呼ばれ続けました。じつはボクは若いころはかなりの「童顔」でありまして、結婚した後でも、家に尋ねてくるセールスマンの人から「お母さんはいますか?」といつも言われていました。

その後、やっと「○○兄弟」と呼ばれるようになっても、ボクの心には常に「○○君」時代の自分が住み続けています。人前で聖書の話をしたり、討議を司会するような時には、心の中で「あの○○君が良くやってるよ」とつぶやきます。なんだか気恥ずかしいのです。初めて割り当てられた5分間の話の「割り当て」に拍手をもらって、意気揚々と歩いていた「学生服」姿の自分が浮かんでくるのです。恥ずかしい~

①「何事においても、始めた頃の謙虚で真剣な気持ちを持ち続けていかねばならないという戒め」に近いのかもしれませんが、聖書には次の言葉があります。
(啓示 2:1‐4) …エフェソスにある会衆の使いに書き送りなさい。…『わたしはあなたの行ないを知っている。また,あなたの労苦と忍耐を…あなた方は忍耐を示しており,わたしの名のために耐えてきた。そしてうみ疲れたことがない。とはいえ,わたしにはあなたを責めるべき[こと]がある。それは,あなたが,最初に抱いていた愛を離れたことである。

クリスチャンとして注意しなくてはならないことは、神さまとイエス・キリストに対して抱いた「初めの愛」が冷えてしまうこと。そこまでは行かないとしても、神さまを知ることができた時の「初めの感動」が薄れてしまうことです。

物事は何につけても、慣れていくうちに当たり前になってしまうものですね。

ボクはこのブログで、「原始キリスト教」の教えを理解できた時の感動を忘れないように心がけながら、記事を書いています。

例えば、ボクはなかなか神さまを心から信じることができずに悩んでいたのですが、いつの間にか、疑心が確信に変わっていることに気付いたとき、とても感動しました。そのことを、例えば神さまを原点とする人生観の素晴らしさについての記事や進化論の矛盾などの記事を通して書いています。考え方が180°変わったことに自分でも驚いているのです。

また、神さまのご意志が、この地球を元通りの「楽園」に変えることだと理解した時の感動があります。神さまの「王国」あるいは「御国」によって、この地に楽園が回復するのです。いいでしょう? 最高の教えですよね。そして多くの人たちが地上に「復活」するのです。なんと素晴らしい希望でしょう! これは「霊魂不滅」の教えに染まっていて、「天国と地獄」の教理を説いているキリスト教会の教えとなんと違うのでしょうか!

ところが、いつの間にかボクらは、素晴らしい聖書の真理を当たり前のもののように考えてしまいます。それだけでなく、まだ持っていない何かに目が行ってしまい、不満や批判などのネガティブな気持ちになってしまうのです。

そう、ここでも「初心忘るべからず」なのです。

ボクらは「鳩のような純真さ」を忘れてはならないのです。
(マタイ 10:16) …蛇のように用心深く,しかもはとのように純真なことを示しなさい。

「幼子のような謙虚さ」を保ち続ける必要があるのです。
(マタイ 18:4) …だれでもこの幼子のように謙遜になる者が,天の王国において最も偉大な者なのです。

ボクはイエス・キリストとその弟子たちが教えた「原始キリスト教」に深く魅せられています。
長年にわたって埋もれていた聖書の真理が、この時代に甦ってきていることに心が震えます。

この感動、この「初心」を、決して忘れないようにしたいのです。

神さまお名前と「新世界訳聖書」

14才の夏に初めて手にした自分用の聖書は、日本聖書協会の「旧新約聖書(文語訳)」でした。分からないままに読み進め、創世記2章10節から15節に目が留まります。

10:河(かは)エデンより出(い)でて園(その)を潤(うる)し彼處(かしこ)より分(わ)かれて四(よ)つの源(みなもと)となれり
11:其(そ)の第一(だいいち)の名(な)はピソンといふ是(これ)は金(きん)あるハビラの全地(ぜんち)を繞(めぐ)る者(もの)なり
12:其(そ)の地(ち)の金(きん)は善(よ)し又(また)ブドラクと碧玉(へきぎょく)彼處(かしこ)にあり
13:第(だい)二(に)の河(かは)の名(な)はギホンといふ是(こ)れはクシの全地(ぜんち)を繞めぐる者ものなり
14:第(だい)三(さん)の河(かは)の名(な)はヒデケルといふ是(これ)はアッスリヤの東(ひがし)に流(なが)るるものなり
第(だい)四(し)の河(かは)はユフラテなり

15:ヱホバ神(かみ)其人(そのひと)を挈(と)りて彼(かれ)をエデンの園(その)に置(お)き之(これ)を埋(をさ)め之(これ)を守(まも)らしめ給たまへり

エデンの園から流れ出るという四つの川の名前が妙に気になったのです。この四つの名前を暗記することにし、何度も「ピソン、ギホン、ヒデケル、ユフラテ!」と、何かの呪文のように唱えたのでした。そして、大切にしていた、ちょっと高い鉛筆である三菱の「ユニ」の頭の部分を、四本だけ少し削って、そこに四つの名前を書きこんだのでした。

むむ、いかにも男の子のやりそうなことですね。

「明治訳」と呼ばれる文語の「旧約聖書」には、引用部分にもあるように、神さまのお名前が「ヱホバ」として何千回も表記されていましたので、どの宗派の教会でも「ヱホバ」に愛着を覚えるようになりました。今でも年配のクリスチャンは、きっと心のどこかに「ヱホバ」が大事に仕舞われているはずですよ。この発音は一般にも広く流布しましたが、日本聖書協会が昭和29年に出版した「口語訳」で、すべてが「主」に置き換えられたことを契機に、しだいに使われなくなってしまいました。今では、「エホバ」と言えば「エホバの証人」というクリスチャンのグループの代名詞のようになっていますね。

参考に→文語聖書と神さまのお名前
→「ゴッドは神か上帝か」
→神さまのお名前の発音

さてさて、そこで「新世界訳聖書」の登場です。

日本語では1982年に、やっと全巻がそろって一冊の聖書として「ものみの塔聖書冊子協会」から出版されました。「新世界訳聖書」の翻訳方針の一つは、神さまのお名前をその国で一般に流布されている発音と表記で訳出するということですから、日本語では当然「エホバ」が採用されました。ちなみに「新世界訳」は現在120か国以上の言語で発行されていますので、み名の発音も「ヤーウェ」など、多くの人が原語の発音に近いと考えている発音が採用されている国も多くあります。

この聖書、案の定、「正統」とされるキリスト教教会からは、「異端」の聖書として常に批判の対象となっています。

そりゃあそうです。神さまのお名前を明記しているだけじゃなく、かの「聖三位一体」を否定する立場で訳され、なおかつ「地獄の責め苦」を生み出す「霊魂不滅」の教理も否定しているんですからね。控え目に言っても、「どえりゃ~聖書」なのです。

良くやった、あっぱれ三つ!…という感じです。

参考に→新世界訳聖書③
→新世界訳聖書②
→新世界訳聖書①

「新世界訳聖書」が神さまのお名前を聖書に「復活」させたことは、まさに快挙なのですが、とりわけ「快挙」としてボクがとりあげたいことは、「新約聖書」の中にも「エホバ」を復元させたという一大事です。

神さまのお名前を表すヘブライ語のYHWHは、原語のヘブライ語だけでなく、翻訳された「共通ギリシャ語」の「旧約聖書」の写本にも表記されていたことは証明されています。

参考に→ファド・パピルス266

ところが、西暦1世紀にギリシャ語で書かれた「新約聖書」の写本で、YHWHを表記してあるものは、まだ見つかっていません。ですから、文語訳の新約聖書(大正訳)にも、「ヱホバ」は訳出されてはいませんでした。

ですから、「新約聖書」にも神さまのお名前を復元させた「新世界訳聖書」は、まさに「やってくれたな」という感じの一大「快挙」を成し遂げたのです。もちろん、人によっては、これを「暴挙」ととらえることでしょうけどね。

ボクが、これを肯定的に「快挙」ととらえる理由は、これまで何度も書いてきましたが、写本の有無ではなくて、疑問の余地のない「聖書中の証拠」によります。つまり、イエスキリストや弟子たちが、明らかに「み名」を愛し、用いていたという「証拠」です。
→「原始キリスト教」と神のみ名

さて、「新世界訳」はどのように新約聖書に「み名」を復元したのでしょうか?

第一の方法は、単純な方法で、大部分にあてはまります。それは、イエス・キリストや弟子たちが「旧約聖書」から引用した聖句に「YHWH」が含まれている場合に、各言語で広く使われている発音で「YHWH」を表記するという方法です。だから、ボクには感動モノの次のような聖句が登場したのです。

(マタイ 4:4) …しかし[イエス]は答えて言われた,「『人は,パンだけによらず,エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない』と書いてあります」…申命記8:3の引用
(マタイ 4:7) …イエスは彼に言われた,「『あなたの神エホバを試みてはならない』とも書いてあります」…申命記6:16の引用
(マタイ 4:10) …その時,イエスは彼に言われた,「サタンよ,離れ去れ!『あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,この方だけに神聖な奉仕をささげなければならない』と書いてあるのです」…申命記5:9,6:13の引用

→イエスと神のみ名

第二の方法は、文脈や言葉の親和性(例えば「エホバのみ使い」)から判断し、既存のヘブライ語訳聖書を参照しながら、必要な個所に「YHWH」を復元するという方法です。

そのようにして、「新約聖書」中の237か所で、(日本語では)「エホバ」が復元されました。これは、とても大胆かつ勇気がいることだとも思います。なぜなら、「正統的」なキリスト教会では正反対な傾向が続いているからです。つまり、「YHWH」を7000回に近いすべての個所で、「主」や「神」という一般名詞に変え、結果として「み名」を用いることに愛着どころか違和感を覚えるクリスチャンが量産されているのです。

聖書から神さまのお名前を取り去ることにこそ、違和感を感じるべきなのではないでしょうか? なぜなら、そのお名前は、神さま
ご自身が名づけられたものであり、永遠のみ名として何度も言及しておられるからです。

(出エジプト記 3:15) …そののち神はもう一度モーセに言われた, 「あなたはイスラエルの子らにこう言うように。『あなた方の父祖の神,アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神エホバがわたしをあなた方のもとに遣わされた』。これは定めのない時に至るわたしの名代々にわたるわたしの記念である。

それに、イエス・キリストが教えられた「主の祈り」で最も強調されていることは何でしょうか?

(マタイ 6:9) …天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。


そんなこんなで、ボクは「異端」の聖書、「新世界訳」を応援しています。この「風に向かって立つライオン」のような、孤高の聖書翻訳を大いに推薦したいと思います。

ライオン

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「遊び心」で始めた
架空の「聖書研究会」です。

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●エホバを信じる人に、なろう!・・・・ ●イエス、大好き!・・・・・・・・・・・・・・ ●地獄なんて、ないよ!・・・・・・・・・・ ●信仰/希望/愛に、あふれよう!・・・ ●死者の復活、うれしいな!・・・・・・・ ●千年王国は、近いよ!・・・・・・・・・・ ●贖いと罪の許し、ありがとう!・・・・・ ●永遠の命、最高!・・・・・・・・・・・・・ ●祈って祈って祈って、祈ろう!・・・・ ●聖書を読んで読んで、読もう!・・・

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