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「日本国憲法を口語訳してみたら」(塚田薫)

日本国憲法を口語訳してみたら

この本は2013年に出版されました。著者は当時、法学部の学生であった塚田薫さんという男子です。今でもまだ28才くらいの若者ですね。とても分かりやすい、「憲法入門書」のような本です。

「口語訳してみたら」というタイトルですが、もともと「日本国憲法」は一般の人にも分かりやすい文章でという配慮から、旧仮名遣いではあるものの、「口語」で書かれていますね。

(元々の草案は文語・漢字カタカナ交じり文だったようでしたが、「国民の国語運動連盟」という団体の主張が瀬戸際で受け入れられて、今日のような文章になったとのことです)

ですから、この本の「口語訳」とは、現代の「若者男子言葉」で訳されたという意味になると思います。

「桃尻語訳・枕草子」(橋本治)が、「女子高校生言葉」で「枕草子」を訳して大成功しているのに似ていますね。

例を挙げましょう。始めが「塚田訳」で、次が本来の文章です。

第9条:俺たちは筋と話し合いで成り立っている国どうしの平和な状態こそ、大事だと思う。だから国として、武器を持って相手をおどかしたり、直接なぐったり、殺したりしないよ。もし外国となにかトラブルが起こったとしても、それを暴力で解決することは、もう永久にしない。戦争放棄だ。
第9条:日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

とっても分かりやすいですよね。

「基本的人権」の項目はこうなります。

第11条:俺たち国民は、ちゃんと一人の個人として生きていけるんだよ。これはずっと続いて、俺たちのガキとか、そのまたガキとか、すべての国民が持つ永久の権利だよ。これがいわゆる基本的人権ってやつね。
第11条:国民は、すべての基本的人権の教授をを妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

こんな調子だから、全部で103条からなる日本国憲法を、たぶん10分くらいで読み終えられると思います。元々の文章で読んでも30分以内で読めるくらいなので、日本国憲法はとっても短いもんなんだな、とあらためて思いました。というか、全文を読むなんて今までしたことなかったかもね。

もうちょっと、例を挙げます。今度は順序を逆にして見ます。

第19条:思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第19条:どんな考えでも、それはお前の考えなんだから、大事にされるよ。もし、公権力がお前の考えや良心に反することを要求しても、全部無視していいよ。

第20条:信教の自由は、何人に対してもこれを保証する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない。
第20条:どんな宗教も、信じたり信じなかったりするのは俺たちの自由だよ。あと、どんな宗教団体も、国に特別扱いされてはいけないし、政治に手を出しちゃだめだよ。俺たちが平等なら、神様も仏様もみな平等な。

憲法は思想・良心・信教の自由を高らかに唱っていますね。おかげでボクも、「原始キリスト教徒」として、言いたいことを言っていられるのですね。

この本は、こんな調子で原文と塚田訳を並記しながら書かれている前半と、五つの「コラム」が続く後半から成っています。

コラムのテーマは、こんなです。
1:そもそも憲法ってなに?
2:「日本国憲法」はどうやってつくられたの?
3:憲法9条ってなんでそんなに重要なの?
4:女系・女性天皇について、これだけは知っておこう!
5:「将来お世話にならない」とは決していいきれない生活保護ってなに?

「そもそも憲法ってなに?」では、戦争好きなイングランドの王様に、「偉いからってあんま調子にのってるとしばくぞ」と、怒った貴族たちが突き付けた約束事である「マグナ・カルタ(大憲章)にその起源があると説明されていました。西暦13世紀のことです。
それから議会がだんだん力を持つようになりますが、やっと17世紀になってイギリスで「名誉革命」が起き、「権利の章典」が定められました。

その後も、17~18世紀の「啓蒙思想」を経て、王様だの貴族だのといった特権階級だけでなく、普通の「みんなが生まれながらに持っべき平等の権利を大切にしようよ」という「人権思想」が生まれ、「国民主権」という考えにつながっていきます。

18世紀末の「フランス革命」は重要な里程標になります。「王政」から、史上初の「共和制」へと進むのです。

その後も、三権分立の確立や、20世紀になってドイツのワイマール憲法に初めて明記された「社会権」、つまり「社会を生きていくうえで、人間が人間らしく生きていくための権利」という新しい人権の登場へと続いていきます。

そんなふうに、日本国憲法につながる世界の憲法の起源や変遷を、ざっくりとですが、とても分かりやすく学ぶことができました。

ふ~む。物事の改善にはずいぶんと時間がかかるんだな~、とはボクの感想です。そしてどんなに高邁な思想の下に作られた「憲法」を持っていたとしても、「絵に描いた餅」になりやすく、人間はまたぞろ愚かな戦争を繰り返すんだろうな~という諦めの気持ちも湧いてきます。

「憲法9条ってなんでそんなに重要なの?」というコラムでは、戦争ではなく「話し合いで解決したほうが賢くね?」という考え方によって平和主義がすすんできた経緯が説明されていました。ボクにとって興味深かったのは、第一次世界大戦後に戦禍に苦しんだ国々があつまって作った「話し合い」の場である国際連盟が結局失敗し、第二次世界大戦後に、もっと強い権限を持つ「国際連合」として再出発したという説明でした。

現在の世界情勢を見ると、諸国家の話し合いの場であるはずの「国際連合」も、全然うまく機能しているとは思えませんよね。もっともっと強い権力を与えなくてはなりませんね。将来起こるかもしれない世界的なパニックによってそんな機運が盛り上がるのかな~、などとひとしきり聖書の「黙示録」の成就へと黙想が続きました。

→キリスト教会の中の「偶像」

ふふふ、無理矢理ですが、聖書の話題と結び付けてしまいましたね。   m豆m

組織の改善⑦まとめ

ボクがこのテーマで繰り返し主張していることは、聖書的な根拠の有無や濃淡によって物事を論理的に判断しよう、ということです。現在のところ、主に、白や灰色を黒としていることが原因で、論理が歪み、結果として個人の自由が束縛され、組織としても軋みが生じていると思います。

(ちなみに、「黒を白とする」という誤りが、一般の「キリスト教会」の妥協的な状態を生み出している原因だと思います)

組織の改善②1914年」では、聖書的根拠が薄弱な解釈によって、事前に知ることができないはずの「時と時刻」を「予言」してしまった結果として、矛盾や混乱が生じていることに対して懸念を表明しました。

組織の改善③排斥制度」では、「オオカミ」にだけ適用すべき聖書的根拠を「拡大解釈」して「羊たち」に適用することによって、無用な苦しみを生み出しているのではないかという問題提起をしました。

組織の改善④輸血拒否」では、聖書の原則の適用に関して少しでも疑問が残る場合は「灰色の領域」と見なし、たとえどんなに「黒に近い」と思われたとしても、個人の良心上の決定を「裁かない」という態度が大切ではないかと述べました。

組織の改善⑥良心的決定」では、聖書的な根拠がかなり薄いものであるのにもかかわらず、「してはいけない事柄」とされて多くの人たちの自由を奪ってしまっている問題を取り上げました。

今思うのは、ボクがここで取り上げたような意見を、もっと自由に言えるような「風通しの良い組織」になってほしいということです。この程度の事柄は、きっと多くの兄弟姉妹が思っていることなのだと思います。たとえば、巡回監督が訪問してくれた時に、「こんなふうに思うんですけどねぇ」と気楽に話せて、その意見がもっと簡単に指導的立場の兄弟たちに届くようになれば、組織はすぐに改善されるはずです。むしろ、組織の方から「何か改善してほしいことはありませんか?」と尋ねるくらいが良いと思います。そんなふうに「血の巡りの良い組織」になれば、活力は倍増するのではないでしょうか。そうなってほしいなぁ。

こんなふうに「組織の改善」を唱えているからといって、ボクが「組織」を嫌っているとは思わないでくださいね。むしろ心から愛していて誇りに思っているからこそ、もっともっと誇れる組織になってほしいという、祈りのような願いから書いているのですから。

この組織のおかげでエホバを知れましたし、エホバから息子のように愛されているんだという自覚を持つことができました。神さまとのこうした絆を与えてくれた「組織」には、どんなに感謝しても感謝しきれません。

それに、ボクは「福音派」の教会に通ったり、異端とされる幾つかの教会の教えも学んできましたので、「エホバの証人」との違いが良く分かっているつもりです。そのうえで、聖書を一番正しく教えている「教会」として「エホバの証人」を選んでいるのです。


裁きは神さまのものです。最終的に、「さすがエホバだ」と思うような「粋な裁き」をしてくださることを確信しています。ボクたちは自分の信じる道を行くしかありません。

(伝道の書 11:9, 10) …若者よ,あなたの若い時を歓べ。若い成年の日にあなたの心があなたに良いことをするように。そして,あなたの心の道に,あなたの目の見る物事のうちに歩め。しかし,それらすべてのことに関して,[まことの]神があなたを裁かれることを知れ。それゆえ,あなたの心からいら立ちを除き,あなたの体から災いを払いのけよ。若さも人生の盛りもむなしいものだからである。

だから、ボクはこの道を歩みます。

(ミカ 6:8) …地の人よ,何が善いことかを[神]はあなたにお告げになった。そして,エホバがあなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,親切を愛し,慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか

組織の改善⑥良心的決定

聖書的な根拠がどれくらいあるのか?

根拠の強度というか薄弱度というか、色で言えば濃淡…つまり黒から白の間のどの位置にあるのか…を、あらためて見直してみようと考えました。

白黒グラデーション

前々回の記事の中で、ボクなりの濃淡を分類してみました。以下に再掲します。

固守するもの(聖書的根拠が十分にある)
   三位一体を採用しない
   地獄の責め苦の教えを採用しない
   神のお名前を、その国で親しまれている発音で採用する
   教階制度を採用しない
   いかなる偶像崇拝もしない
   戦争や紛争に参加しない   
   性の不道徳を避ける
   血を食べない
   麻薬を使用しない   
   ……
   ……
奨励するもの(聖書的根拠が十分とはいえないが)
   喫煙をしない
   医療上の血の使用に慎重を期す
   ……
   ……
個人の判断に委ねるもの(聖書的根拠が少ない)
   誕生日を祝うこと
   乾杯をすること
   大学教育を受けること
   校歌を歌うこと
   (スポーツとしての)武道を習うこと
   ……
   ……


この表では、
①は聖書的根拠が十分にある、つまり「黒」であるという分類です。

②と③は共に「灰色」ですが、その濃度にずいぶん違いがあります。

②は人によっては黒だと見えるくらい、「濃い灰色」になります。
③は人によっては完全な「白」だと思われるくらい、「淡い灰色」になります。

ボクの主張は、灰色の領域は、どれほど濃淡の違いがあろうとも、個人の良心の問題とし、それを他の人が裁くべきではない…そう、白黒つけるべきでない…というものです。

今回は③に分類した項目について考えたいと思います。

●誕生日を祝う
エホバの証人もかつては普通に誕生日を祝っていましたが、聖書の中にある誕生日を祝った二つの記録が異教徒のものだけであり、なおかつその際に殺人が行なわれているという事例がとりあげられて以来、誕生日を祝うことは「聖書的でない」とされてきました。それは個人を不当に高めることにもなるという論理も加えられました。

それでも、誕生日を祝ってはいけないという明確な教えが聖書中にあるわけではありません。むしろ次のような言葉が見出されます。
(ローマ 14:5, 6) …ある人は,ある日がほかの日に勝ると判断し,別の人は,どの日もほかのすべての日と同じであると判断します。おのおの自分の思いの中で得心していなさい。日を守る者は,それをエホバに対して守ります。
(ローマ 14:10) …それなのに,あなたはなぜ自分の兄弟を裁くのですか。また,なぜ自分の兄弟を見下げたりするのですか。わたしたちはみな,神の裁きの座の前に立つことになるのです。

例えばある人たちは「結婚記念日」を大切な日と考えて毎年特別なお祝いをします。これはエホバの証人の兄弟姉妹たちの多くも行なっていることです。だれもそれについて「裁き」ませんね。結婚は神さまが取り決められたものですし、自分たちが結び合わされたことを神さまに感謝する機会ともなるでしょう。

「誕生日」についても同じようにみなせないでしょうか?

神さまが与えてくれた命に、特別に感謝する日とみなせないでしょうか?

親が子どもに、「今日はエホバが○○ちゃんに(胎外での)命を与えてくれた日なんだよ。○○ちゃんは神さまからの、パパとママへの特別なプレゼントなんだよ」といって話すことに何かの害があるとは思えませんよね。むしろ、子どもの心に命の与え主である神さまに対する感謝の気持ちを植える良い機会となるのではないかな。

たぶん、このような論理に賛成してくれる兄弟姉妹もたくさんおられると思うのですが、「でも組織がそれを禁じているので…」ということになるのでしょう。「組織が良いというまでは誕生日を祝わない」という方々がほとんどなのだと思います。

ボクはどうしても、ここに、聖書に基づく自由を不当に制限してしまう「組織の弊害」があると思えてしまうのです。

●乾杯をする
これは状況によっては「黒」の領域になることがあります。例えば誰かが「お酒の神バッカスに、カンパイ!!」と音頭を取るなら、クリスチャンであるボクたちは、「おいおいそれはできないぜ!」と思いますね。それは偶像崇拝そのものです。誰かが無理矢理にグラスを近づけてきたら、「いやいや、ボクはバッカスなんか信じていません」と言って拒否します。

乾杯の起源にはたしかに宗教的な要素が含まれているのかもしれませんね。

それでも、たいていの日本人にとっては「乾杯」は「どうぞよろしく」とか「良かったね」とか「ご苦労さまでした」などの社交的なあいさつのようなものになっているのではないでしょうか。これは臨機応変に対処できる事柄なのではないかなと思います。

宗教的な起源を問い詰めるならば、例えば両手を合わせてお辞儀をするような仕草にも宗教的な起源があるのではないか、などと際限なく広がってしまいますね。食前の「いただきます」という言葉だって、ちょっとあやしいですよ。結婚指輪にも宗教的な起源があるらしいし。

ですから、「乾杯はダメ」と一律な規則にするのではなくて、各自の良心に基づいて臨機応変に対処する事柄としたほうが、ずっと論理的ですっきりします。

●大学教育を受けること
これは明確に禁じられているわけでは、もちろんありません。ただ、高等教育が神さまへの信仰を弱まらせる結果になるかもしれない、とか、そのために費やす時間を神さまへの奉仕に振り分けることの方が良い、というような説明がしばしばされています。

「大学教育は良くないんだ」という暗黙のルールになってしまうのかもしれません。みんな真面目だからなぁ~

子供が大学へ進学することを許した親は「長老」の資格が問われる、なんてことも聞いたことがあります。ほんとかね? ボクの身近では聞いたことはありませんが。

子供が自発的に「ボクは大学なんか行かないよ。宣教者になって海外で働くんだ」などと言ってくれるなら、それは嬉しいことですね。「それでもお前、大学教育くらい受けておけよ」などというつもりは毛頭ありません。(ボクには子供がいないけどね)

それでも、義務教育(小中学校)、高等学校、専門学校、短期大学、大学教育、大学院教育…のどこに線を引くべきかは、やっぱり個人が決めれはいいんじゃないの?と思います。

今のボクの会衆にはもうすぐ大学を卒業する若い姉妹がいます。すでに「開拓奉仕」を申込み、先日承認されました。子どものころから知っている娘さんなのですが、最近の霊的な活発さには目を見張るものがあります。

たぶん、この問題は、ボクたち個人個人の「円熟」が必要なのでしょう。「組織の提案」を、自分の状況に当てはめる時に臨機応変な判断と対処をすれば何も問題は起きないのでしょうね。そして、人を裁かないことです。

●校歌を歌うこと
国家」を歌うことや国旗敬礼には、しばしば偶像崇拝的な要素が含まれます。
ですから、ボクらの良心は敏感に反応し、これを行なわないようにとボクらに告げます。

同じような状況と見なされて、行うべきではないとされているものに学校の「校歌」があります。「校歌ダンス」などというダンスを作る学校もあります。これを広げていくと幼稚園では「園歌」がありそうですし、「園歌ダンス」なんかもあるかもしれない。

たいていの「校歌」は偶像崇拝的な内容ではないように思うのですが、どうなんでしょう?

ボクは歌が好きなので、小学校・中学校・高校の校歌も覚えていて歌えます。どの歌の歌詞も、たいして偶像崇拝的だとは思えません。

歌うのか歌わないのか、これも、やっぱり個人の良心が判断すべきことですよね。規則にしてしまうのは違うと思います。
たぶん現場では、今でも臨機応変に対応しているのだと思いますが、ここはぜひ、明確にしていただきたいなあ、と思うわけです。

一言、そうしたことは「各自が自由な判断で決めましょう」と書いてくれるだけでいいのです。それですべてが変わります。

●(スポーツとしての)武道を習うこと
(イザヤ 2:4) そして,[神]は諸国民の中で必ず裁きを行ない,多くの民に関して事を正される。そして,彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない。

キリストの弟子として、ボクらは暴力や暴力的なスポーツや娯楽を避けたいと思います。

「剣道」や「柔道」などの格技は戦いを学ぶことになるので、聖書の原則に合わないという指針があります。たしかにその通りだと思う皆さんもおられるでしょう。イエス・キリストが剣道や柔道を熱心に稽古している姿を思い浮かべることは難しいものです。ましてや、殴り合いそのもののような「ボクシング」をしているイエスは想像できません。

ただ、この点でも、個人の良心によって判断の異なる部分があり得ると思います。

柔道や剣道は単なるスポーツであって、戦いを学ぶことには当たらない、むしろ礼儀や相手を思いやることを学ぶことができるという意見です。じつは中学校時代に柔道部に所属していたボクには、柔道が暴力的であるという見方には違和感がありました。ただ、試合の時などに闘争心をかきたてようとするようなこともありましたので、高校以降はやめることにしました。

例えば親子で相撲ごっごをして遊ぶことはどうなのでしょう? これも戦いの一種でしょうか?
弓道はどうなのでしょう? アーチェリーは? 陸上競技の槍投げは?

きりがないですね。

結論として、やはり、スポーツとして武道や格技を学ぶことは「灰色」の領域となるのではないでしょうか?


さてさて、これくらいにしておきましょう。聖書的根拠が十分でないものは、すべて、個人の判断に任せること、ボクが願っているのはそのことだけです。不必要な規則はクリスチャンの自由を奪ってしまいます。それはで本末転倒ですからね。

次回で、このテーマを「まとめ」ておしまいにします。本来の「遊び心」ブログに戻ります。

組織の改善⑤聖書の実例

この記事も祈りの言葉で始めよう。

「エホバよ。み名を思う民の組織を改善してください!」

この組織には、神さまとイエス・キリストを心から愛する人々が何百万人も集まっています。たとえその数がわずか2、3人であろうとも、イエスはこう言われたのではありませんか?

(マタイ 18:19, 20) …あなた方に真実に言いますが,地上にいるあなた方のうちの二人が,どんなことでも自分たちの請い願うべき重要な事柄について同意するなら,天におられるわたしの父によって,それはその[二人]のためにそのようになるのです。二人か三人がわたしの名において共に集まっているところには,わたしもその中にいるからです。


現在(2017年)、エホバの証人の数は世界中で約800万人、日本では約20万人です。神さまとイエス・キリストを愛する誠実な人々がたくさんいることは、何かの事情で反対者であったり、組織を離れた人たちであっても、大筋では認めてくださるのではないでしょうか? 

神さまはこの人々の組織をどのように見ておられるのでしょうかね。皆さまはどう思われますか?

ボクの立場ははっきりしています。

神さまはこの組織(そこに集まる個々の人々と言った方が分かりやすいかな?)を愛しておられ、霊によって穏やかに導いておられる、ということを信じています。

そう、ボクは、エホバの証人の組織に関して超ポジティブな見方をしていますよ。

神さまが、ご自分を信じると表明している他の組織をどう思っておられるのかは、今はよくわかりません。
ただ、「原始キリスト教」の特徴を最も色濃く持っているのは、現在のところ「エホバの証人」であると思っています。

では、なんで「組織の改善」なんてテーマで、あれこれと下手な考えをめぐらしているのか?
どうしてでしょうかね? 

たぶん…個々の人々も組織も、常に改善すべきものだと思っているからです。完全な人も組織も存在しないからです。

とりわけ「組織」は、風通しが悪くなったり、機能不全に陥ったり、硬直化したり、良かれと思って定めた「約束事や決まり(ルール)」が不必要な束縛になったり、一部の人が甘い汁を吸ったり、思い上がった権力者が生まれたり、不都合な事実を隠ぺいしたりなどと「組織の弊害」が生まれやすいのです。そうではないでしょうか?

組織の弊害に悩まされる時に、「泣き寝入り」をすることは必要ありません。聖書の中にもいくつかの実例があります。
ちょっと長くなるけどご辛抱ください。

実例①

(使徒 15:19, 20) …ですから,わたしの決定は,諸国民から神に転じて来る人々を煩わさず,ただ,偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。

割礼を受けるべきか?…エルサレム会衆の「長老たち」と「使徒たち」の会議の席上、司会の務めを果たしていたと思われるヤコブ(イエスの異父兄弟)は上記のように意見を述べました。そこで、全員一致の下に結論が下され、次のような文面の手紙が諸会衆に送られます。

(使徒 15:28) …聖霊とわたしたちとは,次の必要な事柄のほかは,あなた方にそのうえ何の重荷も加えないことがよいと考えたからです。

割礼必要なし!…この決定は「古い皮袋」である「ユダヤ教の体制」からの決別であり、「新しい皮袋」である「キリスト教の体制」の誕生を象徴する出来事でした。活力のある「新しいぶどう酒」であるキリスト教は、新しい入れ物を必要としていたのです。

この出来事は、神さまが主導された、大気模な「組織の改善」であったとも言えるでしょう。

この改善がなされたきっかけには、割礼を強要された人々の不満があったことでしょう。もし、その不満を口に出さないままであったならば、エルサレム会議は開かれないか、開かれたとしてもずっと後になっていたかもしれません。

このように、物事の進展に伴って生じる「不都合な事態」は、改善のための契機となりますね。

では、別の、もっと小規模な「組織の改善」の実例が聖書の中に見出されるでしょうか?

実例②

「食物の分配」方法をめぐる不満の表明が、組織上の変更をもたらした例があります。

(使徒 6:1) …さて,そのころ,弟子が増えていた時であるが,ヘブライ語を話すユダヤ人に対してギリシャ語を話すユダヤ人がつぶやくということが起こった。そのやもめたちが日ごとの分配の面で見過ごされていたからである。

「つぶやき」、まさに不満の表明が、7人の円熟した兄弟たちを選出して問題に対処するという「改善策」につながりました。

実例③

モーセの時代にも、このような例が見つかります。
一つは、モーセの舅(しゅうと)であるエテロの提案です。モーセが人々の苦情を聞いて裁くことを一手に引き受けている様子を見たエテロはこのように提案します。

(出エジプト記 18:17‐19) …あなたがしているそのやり方は良くない。あなたは,そうだ,あなたも一緒にいるこの民もきっと疲れ果ててしまう。この仕事はあなたにとって重すぎる荷なのだ。あなた独りでこれを果たすことはできない。さあ,わたしの声を聴き入れなさい。わたしはあなたに忠告しよう。
(出エジプト記 18:21, 22) …あなたは,民全体の中から,有能な男子,神を恐れる,信頼できる人々,不当な利得を憎む者たちを選び出すべきだ。あなたはそれを,千人の長,百人の長,五十人の長,十人の長として人々の上に立てるように。そしてその人たちがすべてふさわしい時に民を裁くことになる。大きな問題はすべてあなたのところに持って来るが,小さな問題はみなその人たちが裁き人となって扱うことになる。…

実例④

もう一つの例として、律法の不備も、不満の表明により改善されます。5人の娘たちがモーセに対してこのように述べます。

(民数記 27:3, 4) …わたしどもの父は荒野で死にましたが,…ただ自分の罪のために死んだのです。そして,息子をひとりも持ちませんでした。息子がいなかったという理由で,どうして父の名はその家族の中から取り去られるのでしょうか。父の兄弟たちの間でわたしどもにもどうか所有地をお与えください

頭の固い指導者であるなら、「律法」の字句にこだわって、娘たちの願いをはねつけてしまったかもしれません。しかし…

(民数記 27:6, 7) …するとエホバはモーセにこのように言われた。「ツェロフハドの娘たちの述べることは正しい。ぜひその者たちに,父の兄弟たちの中にあって相続分としての所有地を得させるべきである。その父の相続分を彼女たちに渡すように。

このようにして、律法には補足条項が付け加えられました。

実例⑤

もっと小さい例を挙げましょう。

アブラハムは二人の妻のいざこざに悩んでいました。

正妻であるサラの息子イサクがまだ幼いころに、妾のハガルの産んだ10代の息子イシュマエルは、イサクをからかったりいじめたりしていました。アブラハムを「心の中で主と呼んで」従っていたサラは、この時ばかりは耐え切れず、ハガルとその息子を追い出すようにと夫に懇願します。

正妻サラの「不満の表明」を、アブラハムは取り合いませんでした。しかし、神さまはこのような指示を出します。

(創世記 21:10‐13) …それで彼女はアブラハムにこう言いはじめた。「この奴隷女とその子を追い出してください! この奴隷女の子がわたしの子と,イサクと一緒に相続人となることはないのですから」。しかしこれは,自分の息子に関することでもあり,アブラハムにとっては非常に不快であった。そのとき神はアブラハムにこう言われた。「その少年とあなたの奴隷女とについてサラが言いつづけていることを何事も不快に思ってはいけない。その声を聴き入れよ。あなたの胤と呼ばれるものはイサクを通して来るからである。そしてこの奴隷女の子についても,わたしはこれを一つの国民とする。彼もあなたの子孫だからである」。


まあ、アブラハムの家族も一つの組織ということで実例の一つとしました。
「妻の声を聞きなさい」という神さまの言葉が、ボクには妙に響くのです、はい。

「妻の声は神の声」…「天声人語」ならぬ、「天声妻語」ですね。なんて読むんだ?

お後がよろしいようで。

あっ、「組織の改善⑥良心的決定」もまだあります。はやく終わりにして、もっと気楽な話題にしなくっちゃ。

組織の改善④輸血拒否

豆太郎はけっこう過激なことを書いている!と思われていますかね。ボクとしては、組織の勧め通りに、聖書を個人研究して黙想した結果、論理的な結論はこうではないか?と思うことを書いているだけのことです。

ガチガチの「組織崇拝」は、かえって組織を固くし、改善を遅らせる結果になると思います。
「白は白、黒は黒、灰色は灰色」と、はっきり言いたいし、それこそが絶対に必要なことだと思うのです。

今回のテーマは、「灰色」の領域をどう扱うべきかについての考察です…

(使徒 15:28, 29) …というのは,聖霊とわたしたちとは,次の必要な事柄のほかは,あなた方にそのうえ何の重荷も加えないことがよいと考えたからです。すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物血と絞め殺されたもの淫行を避けていることです。これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください。

上記の聖句は、ユダヤ人以外の「諸国民」がクリスチャンになる場合に、「割礼」を受けるべきか否かという質問に答えて、エルサレムにいた「使徒たち」や「長老たち」が討議した結果を諸会衆に通達した文面の一部です。

要するに、「割礼は必要なし」という結論でした。

血と(血が抜かれていない)絞め殺されたもの」を「避けている」べし、という部分に注目しましょう。

血を食べてはいけない」という定めは、大洪水後にノアに対して述べられた定め(創世記9:4)や、モーセの律法の中の定め(レビ記7:26)と一致しています。

初期クリスチャンたち…原始キリスト教徒…はこの定めを忠実に守りました。迫害者たちは「血入りのソーセージ」を無理やりクリスチャンに食べさせようとしたという記録も残っています。

*** 塔78 4/15 22ページ 15節 キリスト教,そして真の宗教の記録 ***
初期クリスチャンは,神のこのおきてを固く守りました。古代ローマ人の著作家テルトリアヌスによると,第二,第三世紀のクリスチャンたちは,『自然食の簡素な食事をし,動物の血さえ食べませんでした。彼らは締め殺されたものや自然死したものを避けました』。迫害者たちでさえ,真のキリスト教の信奉者たちが,血の抜かれていない肉を食べないことに気づいていました。そこで彼らは,『血のソーセージでクリスチャンたちを誘惑しました。それというのも,クリスチャンに罪を犯させようとして彼らが使っていた物について,クリスチャンたちがおきてに違反するものと考えていたのを,よく知っていたからです』― テルトリアヌス著,「弁明」,第一部,9章。

今日、一般のキリスト教会ではこの事実をほとんど教えていません。あれは1世紀だけのことであるとか、「諸国民」のクリスチャンと「ユダヤ人」のクリスチャンたちの間の摩擦を避けるために一時的な「妥協策」として述べられたものだ、という様な説明もあります。しかし、一時的な指示だとする根拠はあいまいなものです。始めにノアに語られ、次にモーセの律法の定めとなり、1世紀にはクリスチャンたちに再度指示されているからです。

この点で、「血を避けるべし」という聖書の定めをはっきりと教えている「エホバの証人」は立派だと思います。たとえ人気がある教えでなかろうとも、聖書に書かれていることはきちんと教えるべきでしょう。この点はボクが「エホバの証人」を高く評価している理由の一つです。

それでも「血の使用」に関しては「灰色の領域」もあります。

その一つは「輸血」です。つまり、血を食べたり飲んだりするわけではないものの、静脈に直接注入することをどのようにみなせばよいのだろうか、という問題です。

聖書時代には「輸血」という医療処置は行われていませんでしたから、聖書中に「輸血」を禁じる明確な定めはありません。
では、どのように考えたら良いのでしょうか?

食べるという行為と静脈に注入するという行為は、どちらも体内に取り入れることであり同じことだ、という見方もあるでしょう。つまり、これは「黒」であり、聖書が禁じていることであるという見方です。

これはエホバの証人の現在の見解です。

医療の進歩に伴い、輸血は血液の主成分である血漿・赤血球・白血球・血小板だけの注入に限られず、そこから分離される微小な血液分画を様々な目的(解毒や止血など)で用いるようになってきました。

エホバの証人は、これらの血液分画の使用に関しては、個人の「良心的な決定」事項であるとしています。つまり「灰色の領域」であり、各人が自ら判断し決定できる事柄です。加えて、術中の血液希釈法や回収法なども「良心的な決定」事項とされています。

ボク自身は、輸血は「限りなく黒に近い灰色である」と判断しているので、輸血を避けたいと思います。そう判断する背景には輸血に伴う「リスク」がとても大きいという現実も関係しています。聖書を信じてはいない一般の方々でさえ、輸血の危険を良く知るようになってきていますので、できるだけ輸血を避けようとする傾向にあると思います。

ボクの友人の一人は、ある病気の手術の際に輸血を拒否しましたが、無事に成功しました。しかし、同時期に同じ病院で同じ病気の手術の際に、輸血をした複数の患者たちは、その後死亡してしまいました。
もう一人のボクの友人は、聖書を学ぶ前の若い時にした輸血が原因で、約30年後に合併症により死亡しました。

こうした事例もたくさんあるのですから、輸血拒否は、すべての患者個人の権利である「インフォームド・チョイス」として広く認められるべきことだと思います。

では、この点ではエホバの証人には改善すべきことはないのでしょうか?

ボクの良心は輸血を「限りなく黒に近い灰色だ」と判断しますが、他の人たちも同じであるとは限りませんね。
それは「黒そのものだ」と考える人もいるでしょうし、「確かに灰色だが、白に近いのではないか」と考える人もいるでしょう。
「いや、白だ」という人もいるでしょう。

結局のところ、明確な基準が無い場合は、「黒でもなく白でもない、灰色」の領域に分類されるべきなのではないでしょうか?

それで、組織の改善④として、ボクが提案したいことは、輸血を、主要成分の輸血を含めて、すべて「個人の良心」の決定に任せるということです。もちろん。自分の決定の結果は自分の責任として受け入れなければなりません。

現時点では残念ながら、血液の主成分の輸血を自発的に受け入れる兄弟姉妹たちは、「審理」の対象になってしまい、「排斥」になってしまう場合もあります。これはつまり、個人の「良心上の決定」とはみなされてはいないということです。

希なことだとは思いますが、輸血以外に命を救う方法がないという究極状態の時、命を選択する人をどうして責められるでしょうか? それは聖書が明確に禁じていることではないのです。

輸血拒否がニュースになる場合、エホバの証人の「広報」担当者は、「輸血拒否を強制してはいない。これは良心上の問題だ」と説明することがあるようですが、これは現時点では苦しい言い訳です。速く組織を改善して、それが言い訳ではなく本当のことになってほしいと思います。

補足として考えたいのですが、聖書が明確に禁じてはいないものの、多くの人たちがあまり抵抗なく受け入れている定めがあります。例えば喫煙の禁止です。聖書中には「麻薬の使用」を禁じていると受け取れる記述はありますが、惑溺性があるものの「タバコ」は「麻薬」であるとは言い切れない部分があると思います。つまり、聖書が明確に禁じているとは言えないのです。

喫煙を習慣にしている人はエホバの証人にはなれませんし、なった後にこの習慣を持つようになれば、「審理」の対象になり、「排斥」に至ることもあります。

「喫煙」には健康を害する危険があり、これは神さまから頂いた「命」に対する敬意を欠いた行いであることは確かなことです。さらに受動喫煙など、他の人に迷惑をかける要素があり、「隣人を愛する」という原則からも外れてしまいます。

ですから、おそらく多くの人は「エホバの証人」が喫煙を禁止していることに関しては意義を差し挟まないかもしれません。それでも、論理的に物事を考えたいボクにとっては、「喫煙」は「限りなく黒に近い灰色」ではありますが、「厳密に黒であるとは言い切れない」ことだと思われます。世界中の様々な国には様々な形の「喫煙」に類する習慣があることでしょう。これらすべてを一律に「黒」と定めることは、人間にできる事ではないのではないでしょうか?

話が込み入ってきましたが、まとめると…
「輸血」も「喫煙」も、人によって判断が異なる「良心上の問題」であるということです。

えっ、喫煙はダメでしょう?という声が聞こえてきますが、厳密に言えばそうなるということです。

それでは「組織」としては、こうした問題をどのように扱ったら良いのでしょうか?

まず、聖書的根拠の有無や確かさによって、問題をキチンと分別する必要があるでしょう。
とりあえず以下のようなものを考えてみました。3段階の分別です。すべてを網羅してはいません。とりあえず…です。
②が今回の記事に関係していますね。

エホバの証人にはなれない、もしくはエホバの証人でなくなることに関係するのは、①の段階だけで良いのではないかと思っています。③の段階については次の記事のテーマになります。

(以下は、あくまでもボクの私的な分析です)

固守するもの(聖書的根拠が十分にある)
   三位一体を採用しない
   地獄の責め苦の教えを採用しない
   神のお名前を、その国で親しまれている発音で採用する
   教階制度を採用しない
   いかなる偶像崇拝もしない
   戦争や紛争に参加しない   
   性の不道徳を避ける
   血を食べない
   麻薬を使用しない   
   ……
   ……
奨励するもの(聖書的根拠が十分とはいえないが)
   喫煙をしない
   医療上の血の使用に慎重を期す
   ……
   ……
個人の判断に委ねるもの(聖書的根拠が少ない)
   誕生日を祝うこと
   乾杯をすること
   大学教育を受けること
   校歌を歌うこと
   (スポーツとしての)武道を習うこと
   ……
   ……

組織の改善③排斥制度

「組織の改善」などという大それたテーマを始めてしまって、早くも後悔しているボクなのですが、まあ、ボクなりの現時点の考えをまとめておくのも何かの役に立つかなと思い、ひるまずに続けたいと思います。自分の動機に何もやましい所はないし、この記事はボクの「祈り」のようなものなのですからね。読んでくださる皆様にとって、もし、同意できない点があれば、アーメンと言わないでくださいね。

(コリント第一 5:11) …今わたしは,兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように,と書いているのです。

(ヨハネ第二 7、10、11) …それは欺く者,反キリストです。……この教えを携えないであなた方のところにやって来る人がいれば,決して家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもなりません。その人にあいさつのことばをかける者は,その邪悪な業にあずかることになるからです。

上記の聖句は「エホバの証人」が、聖書に反する行いを悔い改めずに行い続ける「兄弟」を「排斥する」根拠とされるものです。

確かに、例えばある「兄弟」が「姉妹たち」に次々と言い寄り、淫行を犯し続けているということが明らかになるなら、その「兄弟」のことを警戒し、社交的な交わりをしないようにと「会衆」に知らせることは妥当なことだと思います。

また、ある「兄弟」が、神とキリストを信じることをやめ、次々と仲間を説得して信仰から反らせようとしていることが明らかになるなら、やはり、その兄弟を「排斥」し、社交的な交わりのきっかけとなる挨拶をさえしないということも、妥当なことだと思います。

この場合の「排斥」措置は、荒らす狼から羊の群れを守るために、ぜひとも必要なことです。社会的に言っても、そうする権利はどの「組織」でも認められていることだと思います。

「排斥」は、最後の最後の最後の手段として取られるものだと思います。つまり、何度も、悪行を悔い改めるように説き薦め、悔い改めを促す努力が払われますが、頑迷にそれを拒み、かつ他の人々にも執拗に悪影響を与えようとする人に対して「○○さんは、エホバの証人ではなくなりました」という簡単な発表をして、会衆の人々に注意を呼びかけるということです。その結果として、必然的に社交的な交際が厳しく制限されるでしょう。

ただ、こうした聖書的な根拠のある制度も、①拡大解釈されたり、間違って適用される時には、「両刃の剣」になってしまいます、つまり、オオカミを撃退するはずの剣が、群れの羊たちを傷つける結果になってしまうことがあるのです。

「羊」を「オオカミ」として、間違って扱ってしまうならば悲劇が生じます。

もうひとつの危険は、「排斥」を本来の意味ではなく、②単なる「懲らしめ期間」のように考えてしまうという問題があります。排斥する側も排斥される側も、暗黙のうちに、『とりあえず「排斥」になって、しばらく反省してから出直せばよい』というような考えになってしまうのです。

双方が、そう納得しているのなら、それでも良いのですが、排斥される側にとっては、やはり精神的に重大なダメージを受ける場合があります。「挨拶の言葉もかけてはならない」ほどの「狼」のようにみなされてしまうのですから、これは、「羊」であるその人にとっては、厳しすぎる罰となってしまうのではないでしょうか?


さらに、付け加えたいことは③悔い改めに導く努力が十分になされないという側面です

まず、この③についてですが…「聴聞会」で排斥に相当するのかどうかを決定するにあたって、きちんと調査をし、その人を悔い改めに導く努力が払われるべきであることは、長老たちへの指示の中にちゃんと触れられているのですが、最初の「聴聞会」が行なわれる時点で、真摯な悔い改めを示していない人のために、不必要に時間をとって、後ほど「二度目の聴聞会を開く」必要はない、という指示もあります。(この指示は「オオカミ」のような人にはふさわしい指示だと思います)

こうした言葉がネックになります。つまり、たった一度の「審理」により、たやすく「排斥」が決定してしまうのです。

人はたいてい、大きな悪行を犯してしまった後は、精神的にもショックを受け、自暴自棄に陥っています。「どうなっても構わない」というような心理状態になっているかもしれません。ですから、その人は悔い改めているようには見えないかもしれません。(こうした心理状態そのものが、その人が「オオカミ」ではなく「羊」であることの証明ではないでしょうか?)

罪を犯した「羊」を、十分な時間をかけて、立ち直るように助けることは、クリスチャンの当然の責務だと思うのですが、そのための時間が惜しまれています。言い方は悪いですが、「さっさと排斥にして、悔い改めを促そう」というようなやり方になってしまうのです。

その背景には、②排斥を単なる懲らしめ期間のように考えるという傾向があるのではないでしょうか?

「排斥」は単なる懲らしめなのでしょうか? いいえ、そうではないはずです。あいさつの言葉さえかけることを避けるような「危険人物」とみなすということでしょう? たいていの兄弟姉妹は「弱さ」ゆえに罪を犯すのであって、「邪悪」な人であるわけではないですよね。

排斥された人の中には、すぐに集会に定期的に出席し、「復帰」を目指す人が多くいます。誰もあいさつさえしてくれませんが、それにもめげずに目立たないところに座席を取って聖書の教えを学び続けるのです。兄弟姉妹たちは、その人にあいさつさえできないという「悲しみ」をこらえながら、復帰の時を待ちます。そして、早ければ半年くらいの後に「復帰」が認められ、喜びのうちに再び仲間としての交わりが戻ってきます。それはそれで良いことなのですが、この人の場合、そもそも本来の意味での「排斥」にふさわしい人だったのでしょうか?

このような結果になればまだ良いのですが、しばらく復帰のための努力を続けたのちに、あきらめてしまう人たちも多くいます。それはそうです。誰も言葉さえかけてくれない環境で、例えば子供を連れて集会に出席する努力は簡単ではありません。ただ、疲れてしまい、努力できなくなるのです。

もっと悪いケースもあります。排斥された人の中には自暴自棄になってしまい、さらに罪を重ねたり、生きる意欲を失ってしまったりする人もいるでしょう。それほど大きなストレスをあたえるのが「排斥」なのです。

上記のようなケースは、つまり「排斥」が①拡大解釈され、間違って適用されたといっても良いのではないでしょうか?

「邪悪な危険人物」、「他の人を食い物にするオオカミのような人」こそ「排斥」にふさわしい人です。

例えば周囲の圧力にまけて「偶像崇拝」を何度かしてしまった人は、そんな危険な人なのでしょうか?
クリスチャンではない友人に誘惑されて性の不道徳を何度か犯してしまった人は、邪悪な人ですか?

たしかに、「悪に凝り固まらないように」何らかの助言や懲らしめが与えられる必要はありますが、「排斥」が考慮される問題ではないでしょう?

もうひとつの状況としては、その人は聖書の教えを心から信じていますが、「組織」の教えるいくつかの聖書解釈や適用の仕方に納得がいかないでいる、という状況があります。その人は自分の気持ちを他の人には言いませんが、ある一人の友人に気持ちを打ち明けたとしましょう。友人はびっくりしてしまい、その人のことを会衆の長老に話します。

長老たちとその人の話合いが行われますが、自分の気持ちに正直なその人は、納得できないことは納得できないことだと告げます。

円熟した長老たちならばそのことを必要以上に追求しないで、時が解決することを待つでしょう。しかし、ときには「拡大解釈」されて、これは「反キリスト」であるというような極端になってしまう場合があり得ます。そして、当然「悔い改め」は示されませんから、「排斥」なってしまうのです。これも「拡大解釈され、間違って適用される」一例となります。

さてさて、キリがありませんね。

ボクが「組織の改善③」として提案したいことは…あいさつの言葉さえかけないような「排斥」を、本来の目的にのみに限るようにすることです。そして、必要であるならば(聖書に明確に書かれているわけではありませんが、)罪を犯した人が真の悔い改めに至るように助ける取り決めとして、「懲らしめ期間」のようなものを設けて、本人と会衆が時間をかけて特別な努力をするということです。

この点で「組織」にも、「個人」にも、改善のための意識的な努力が求められますね。特に「現場」の長老たちの裁量はとても大きな影響があると思います。

もう一つどうしても付け加えたいことがあります。エホバの証人である人が何かの理由でエホバの証人であることをやめたいと思って、その意思表示をした場合、「断絶した」という言葉が用いられます。そして「断絶」した人は、1981年以来、なんと「排斥」された人と同じ扱いを受けてしまうのです。

断絶した人の中には少数の「邪悪な危険人物」がいるのかもしれませんが、大多数は普通の人であり、悪影響を及ぼそうなどとは考えてもいないでしょう。それなのに…う~ん、「組織の弊害」を感じるのはボクだけなのでしょうか?

ああ。エホバよ。み名を思う民の組織を改善してください!

そもそも、クリスチャンはイエス・キリストの次の言葉をしっかりと銘記すべきなのではないでしょうか?

(マタイ 7:1‐5) …自分が裁かれないために,[人を]裁くのをやめなさい。あなた方が裁いているその裁きであなた方も裁かれることになるからです。そして,あなた方が量り出しているその量りで人はあなた方に量り出すでしょう。では,なぜ兄弟の目の中にあるわらを見ながら,自分の目の中にある垂木のことを考えないのですか。また,どうして兄弟に,『あなたの目からわらを抜き取らせてください』と言えるのですか。しかも,ご覧なさい,自分の目の中には垂木があるのです。偽善者よ! まず自分の目から垂木を抜き取りなさい。そうすれば,兄弟の目からわらを抜き取る方法がはっきり分かるでしょう。

組織の改善②1914年

(マタイ 24:36) その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も知らず、ただ父だけが知っておられます。
(マタイ 25:13) …それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなた方は,その日もその時刻も知らないからです。

イエス・キリストが「来る」(到着する・臨在する)正確な時を事前に知ることはできない、ということは上記の聖句から明らかなことです。
(マタイの書の24、25章で用いられている「来る」「到着する」「臨在する」という言葉は同一のことを指しています。これらの言葉に違いを見い出そうとすることは、文脈から見て意味のないことだと思います。エホバの証人は「臨在」という言葉に特別な意味を与えていましたが、最近では理解の調整に伴い、そのことにはあまり触れられていません)

ところが、その時を熱烈に期待するあまりに、聖書に書かれている言葉や出来事の何かを手掛かりにして、その時を算定しようとする人々がいつの時代にもいたようです。

例えば18世紀の熱心なクリスチャンであるウィリアム・ウィストン(ホイストン)(1667‐1752)は、キリストの到来を1716年であるとし、それが外れてしまうと、1746年を提唱し、それも外れてしまうと1766年を唱えました。彼自身は1752年に死去してしまいます。

「原始キリスト教研究会」は架空の組織なのですが、設定上のこととして、その発足に強い影響を及ぼしたとされる「原始キリスト教復興」は実在する本であり、その著者であるウィリアム・ウィストンは実在の人物です。
→ニュートンとウィストン
→ウィリアム・ウィストン

1800年代になると再臨派(アドベンティスト)が形成され、主導者であるウィリアム・ミラー(1782‐1849)は、キリストの再臨は1844年に起きるとしました。しかし、実現には至らず、再臨派は分裂しましたが、1844年という年代は、キリストが天で再臨された年としてセブンスデー・アドベンティスト教会に受け継がれています。

再臨派の一部は、1844年は計算違いであったと考え、新たな年に設定し直します。N・H・バーバーが率いるグループは1874年こそキリストの到来の年であるとしました。

エホバの証人(当時は「国際聖書研究生」と呼ばれていた)の初代の指導者であったチャールズ・T・ラッセル(1852‐1916)は当初、再臨派の年代設定に懐疑的な立場をとっていましたが、N・H・バーバーと接触したことをきっかけに、1874年と「目に見えない臨在」という考えに共鳴するようになります。

さて、1914年という年代は当初、1874年と結び付けられて説明されていました。つまり、天での臨在が始まった1874年から40年後が1914年であり、この年までに「異邦人の時」が終り、神の王国が地上に樹立され、世の王国はすべて滅びに至る、と考えられていました。

1914年にはたしかに第一次世界大戦が始まるという大きな出来事が起きましたが、期待したような世の王国の終わりは訪れませんでした。ラッセルは1916年に死去しますが、その後もしばらくの間(1942年に2代目の指導者であるジョセフ・ラザフォードが死去するくらいまで)、1874年-1878年-1881年-1914年-1925年といった特定の年代が意味付けされ強調されることが続きました。このうち1914年を除く他の年代は、今日では間違いとして認められています。

「エホバの証人ー神の王国をふれ告げる人々」という本の中でも率直に説明されています。

初めに引用した聖句にはっきりと「その日と時刻」は誰も分からないと書かれているにも関わらず、どうしてこのように特定の日付に「期待する」という様な事が起こるのでしょうか? 単に期待するだけでなく、ほとんど断定的に語られるのはなぜでしょうか?

ボクらはそろそろ目を覚まして、そのような愚かな期待や断定を捨てるべきではないでしょうか?

生き残った年代である1914年についても、いくつかの問題があります。
一番大きな問題は、「その日と時刻」を前もって算出したものであるという点です。それは、不可能なことのはずではないでしょうか?

さらに、算出方法としての計算…聖書のダニエル書4章に書かれている「七つの時」すなわち「7年」を、一日を一年として数えて2520年とする…にも、危うい飛躍が感じられますし、それが「異邦人の時/諸国民の定められた時」の期間と重なるものであるという点にも十分な根拠があるとは思えません。

そして、2520年間の起点となる年(西暦前607年)には歴史的な裏付けが見出されていません。西暦前607年を導き出すためにはエレミヤ記(25:11,12)にある「70年」をイスラエル人のバビロン捕囚の期間としなければならないのですが、文脈の中では他の国民も「70年」の間バビロニア帝国によって苦しめられるとありますので、矛盾が生じています。例えば諸国民の年である「ツロ(ティルス)」は「70年」の間バビロンに支配されるとありますが(イザヤ書23:15,17)、この70年についてはバビロンの最盛期の期間であると説明されています。

ただ、1914年については確実なこともあります。それは第一次世界大戦が始まった年であるということです。そして、この年を境に世界情勢が大きく変わったことは多くの歴史家の認めるところとなっています。

(マタイ 24:7, 8) …というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと食糧不足や地震があるからです。これらすべては苦しみの劇痛の始まりです。

この聖句は、イエスが弟子たちの質問に答えて、ご自分の「臨在/到来」に先立つ印として説明した言葉です。

ですから、1914年は聖書中の出来事に基づく計算としてではなく、歴史上の事実として、キリストの到来に先立つ「苦しみの激痛」が始まったことを示す際立った出来事があった年として、無理なく説明できるのではないでしょうか?

クリスチャンたちは「その日と時刻」を算定することはできませんが、その日が近づいていることを見分けることはできます。

(マタイ 24:32, 33) …では,いちじくの木から例えとしてこの点を学びなさい。その若枝が柔らかくなり,それが葉を出すと,あなた方はすぐに,夏の近いことを知ります。同じようにあなた方は,これらのすべてのことを見たなら,彼が近づいて戸口にいることを知りなさい。

キリストを王とする「神の王国」が天において設立された年として1914年を語る事には様々な無理があります。付随的なこととして、1914年の出来事を見た「世代」の説明にも、あれこれと苦慮しなくてはなりません。

それで、「組織の改善②」としてボクが提案したいことは、「1914年」という看板を下ろすことです。

特定の年代に頼らなくても、ボクらは時代の「緊急感」を感じることができますし、信仰のうちに「キリストの到来」を待つことができます。

組織に属するほとんど人にとって、このような理解の変更は簡単に受け入れられます。指導的な立場の兄弟たちの決定をすぐに受け入れることが今までの習慣になっているからです。しかし、組織の指導的な立場の人たちにとってはどうでしょうか? もしかしたら面子にこだわるというような気持ちが起きるのかもしれません。間違いを認めなければならないからです。

人や組織は不完全で間違いを犯すということは誰もが認める真実ですから、間違いを認めるということを恐れる必要はないのではないでしょうか? むしろそれは立派なことなのではないでしょうか?

ボクらは「エホバの証人」を、特定の年代に魅了されて信じているのではありません。聖書に基づく多くの真理…揺るがない真理…を数多く持っている組織であるので信じているのです。そして、第二次大戦中にキリスト教の組織として非戦の立場をとった唯一の組織であることなどの立派な記録ゆえに信じているのです。

この十年間ほどの間に、徐々にではありますが、進歩が見られています。マタイ24、25章のいくつかの記述を1914年ではなく将来の裁きの時と結びつけるようになってきているからです。この流れはきっと預言的な年代に頼らないところまでたどり着くことでしょう。

付け加えて言えば、キリスの臨在自体は目に見えないことであるという理解は間違いないことだと思います。キリストはまず、天からサタン悪魔を追い出すのですが、その出来事によって「神の王国とキリストの権威が実現した」と述べられているからです。

(啓示 12:7‐10) …また,天で戦争が起こった。ミカエルとその使いたちが龍と戦った。龍とその使いたちも戦ったが,優勢になれず,彼らのための場所ももはや天に見いだされなかった。こうして,大いなる龍,すなわち,初めからの蛇で,悪魔またサタンと呼ばれ,人の住む全地を惑わしている者は投げ落とされた。彼は地に投げ落とされ,その使いたちも共に投げ落とされた。そして,わたしは大きな声が天でこう言うのを聞いた。 「今や,救いと力とわたしたちの神の王国とそのキリストの権威とが実現した! わたしたちの兄弟を訴える者,日夜彼らをわたしたちの神の前で訴える者は投げ落とされたからである。

この出来事がすでに起きたことなのか?これから起きることなのか? これはまだ、よく分かりません。
現在の世界の混乱を「サタンが投げ落とされた」結果とみれば、キリストの臨在はすでに起きたことになりますが、将来のさらに大きな混乱の時期を待つべきであるのかもしれません。

ボクのこの記事は、小さな一匹のチョウチョの弱々しい羽ばたきに過ぎません。それでもきっと何かの波及効果をもたらして、何かを変えるかもしれません。

エホバよ。どうぞ、み名を思う民の組織を改善してください!


…最後にお遊びを一つ。

ノアの洪水の時に、神さまは邪悪なネフィリムたちに120年間の猶予を与えました。これをひな形とすると、世の終わりは1914年から120年後の2034年、つまり17年後に起きることになる…などとボクが主張したら、信じますか? 信じないでしょう?

そう、「その日と時刻」は誰も知らないのですよ! それでいいのです。

…以上、「ポジティブ」かつ「率直に」、書けたでしょうかね。自信ありません。

組織の改善①はじめに

ボクは「遊び心」から架空の組織である「原始キリスト教研究会」を想像の中で立ち上げて一人で楽しんでいるのですが、リアルの世界ではもう50年近く「エホバの証人」として過ごしてきました。

かつては「進化論」を信じていたボクですが、「エホバの証人」によって「神の存在」を信じることができるように助けられましたし、いわゆる「キリスト教会」の教えである「三位一体」、「霊魂不滅」、「地獄の責め苦」、「予定説」、「神のみ名を使わないこと」などが、聖書的な根拠のない偽りであることを学び、深く納得しています。また、「神の王国」がこの地球上に「パラダイス」を復興するという希望に胸を躍らせています。

そして、神さまとイエス・キリストを信じる何百万人もの、愛すべき仲間が世界中にいることに喜びを感じています。

「エホバの証人」の組織が神さまの「霊によって導かれている」ことを確信しています。もちろん、これは「神の霊感を受けている」という意味ではありません。人や組織は不完全さから逃れることはできませんから、間違った方向に進んでしまうこともあり得ます。

(「神の霊によって導かれる」という状況は、例えばクリスチャンが祈りのうちに「霊の実」である愛や喜び、温和や辛抱強さや信仰などを培うように努力するときに、ちょうど日光が植物の成長を少しずつ促すのと同じように、神さまの霊が穏やかに働きかけて助けてくれるという状況と同じです)

参考に→雷と日光

人間の組織は常に改善が必要ですが、「エホバの証人」の組織もまた、常に改善できる点があることは当然のことだと思います。

通常、「エホバの証人」は個人レベルでは「組織の改善」ということは話題にしません。それは、改善すべき点があれば「エホバ」が明らかにしてくださるであろうし、それまでは「神を待つ」ことが最善であると考えているからです。これは理のある考え方であると思います。多くの兄弟姉妹がそのように考える気持ちもよく分かります。

この点でボクは、ちょっと「異端児」なのかもしれません。

「エホバの証人」の組織から学んできた「真理」に心から感謝していますし、いわば「恩師」のように敬意を持っていますが、やはり改善すべきだなと思うことは、率直に語りたいと思うからです。間違いは間違いとして素直に認めることは進歩するために欠かすことができないことだとも思います。

率直に語ると言っても、2、3人の気の置けない友人を除いては、今のところ、この匿名のブログを通してだけですけれどね。トホホ。

…前置きが長くなりましたが、新しいシリーズとして「組織の改善」というテーマを取り上げたいと思います。

予定しているタイトルは…●1914年●排斥制度●輸血拒否●良心的決定などです。

このシリーズを書く動機は、より良い「組織」に少しでも早くなってほしいという願いからですし、それは毎日、エホバに祈っていることでもあります。今までは「組織」について書くことは、このブログの本旨と外れるので「封じ手」としてきたのですが、何回か破りましょう。

ゆっくりと、考えながら書く予定ですので、ブログの更新頻度は落ちるかもしれません。これ以上落ちたら月に一度くらいになってしまうかもしれませんね。まあ、あんまり読んでいる人もいないから、大丈夫ですね。トホホ。

ネットの世界には必要以上に「ネガティブ」な考え方になって、組織の何もかもが気にくわないような書き方がされているものもありますが、ボクは「ポジティブ」かつ「率直」に書きたいと思っています。うまくいくかな? まあ、やってみましょう。

ただし、やはり時期尚早かなと思う場合は、引っ込めるということもあるかもしれません。あしからず。

神さまを信じて生きる幸福

クリスチャンの仲間や組織に「つまずいて」、神さまを信じること自体をやめてしまうなんて、
う~ん、もったいないな~、と思います。

ボクにとっては神さまを信じて生きることの幸福が一番大切なもの、価値あるものであって、人や組織はせいぜい五番目くらいの重要度なのです。良い仲間や組織は望ましいものですが、もしそれが無かったとしても、大丈夫なのです。

幸いなことに、心から神さまを信じて懸命に生きている素敵な仲間たちに恵まれていますけどね。

→神さまを信じることをあきらめないで!
→つまずきシリーズ①~⑥

人や組織は不完全なものなので、いつでも問題を引き起こします。それで当たり前なのです。
聖書はそのことを明らかにするために記録されたと言っても、そんなに大きく外れてはいないでしょう。

(コリント第一 10:11) …これらの事は例として彼らに降り懸かったのであり,それが書かれたのは,事物の諸体制の終わりに臨んでいるわたしたちに対する警告のためです。

神さまを信じて生きることの幸福について良く考えましょう。

そしたら、それを捨てるなんて考えられなくなる。

神さまがあってこそ、生きる意味が生まれるのではないでしょうか?
他の誰が愛してくれなくても、神さまは愛してくれる存在なのではないでしょうか?
その自覚がもたらす大きな安心感を味わいましょう!

心から神さまを信じて祈る時の清々しさよ! 嬉しさよ!
イエス・キリストの教えに出会えた喜びよ!

ちっぽけな人間のもたらす「つまずき」なんかに「つまずいて」なんていられません。
もし、うっかり「つまずいて」しまったとしても、また起き上がれば良いのです。

(箴言 24:16) …義なる者はたとえ七度倒れても,必ず立ち上がるからである。

「神さまに出会えたからこそ今も生きていられる」
異口同音にそのように話す友たちがたくさんいます。

神さまを信じて生きることの幸福を誰にも何にも奪われてはなりません。

もし、奪われそうになったら、豆太郎もちょっとは助けになれるかもしれませんから連絡してね。

イエスの教え⑦天の王国は近づいた

イエス・キリストの言葉…というと次のような言葉がすぐに思い浮かぶかもしれません。

「右のほほを打たれたら左のほほを向けなさい」
「明日のことを思い煩うな」
「自分にしてほしいと思うことを他の人にしなさい」
「野のユリを見よ。それらは労したり紡いだりしないが、神が衣を与えておられる」
「あなたの敵を愛しなさい」
「求めよ。さらば与えられん。たたけよ。さらば開かれん」
「狭い門を通って入りなさい。命に至る門は狭いのです」

……

こうした言葉は確かに含蓄のあるものですが、イエスの宣教の中心にあったものは、もっと「固い」ものでした。

(マタイ 4:17) …その時からイエスは伝道を開始して,「あなた方は悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」と言いはじめられた。

「天の王国」あるいは「神の王国」が近づいた、という表現は何度も繰り返された、イエスの教えの「主題」でした。

実は、原始キリスト教の教えから逸脱して大いに歪められた教えの一つが、「王国」なのです。

参考に→天国と王国

1世紀当時、イスラエル人が「旧約聖書」中の預言の成就としてその実現を待ち望んでいたもの、それが「王国」でした。

(イザヤ 9:6, 7) …わたしたちのためにひとりの子供が生まれ,わたしたちにひとりの男子が与えられたからである。君としての支配がその肩に置かれる。そして彼の名は,“くすしい助言者”,“力ある神”,“とこしえの父”,“平和の君”と呼ばれるであろう。ダビデの王座とその王国の上にあって,君としてのその豊かな支配と平和に終わりはない。それは,今より定めのない時に至るまで,公正と義とによってこれを堅く立て,支えるためである。実に万軍のエホバの熱心がこれを行なう。

ダビデやソロモンなどの歴代の王たちは「油注がれた者」という意味で「メシア」と呼ばれました。その系譜を継ぎ、長らく途絶えていた「ダビデの王座」に座る新たな「メシア」の到来を人々は待ち望んでいたのです。

文語訳では「君としてのその豊かな支配と平和に終わりはない」の部分は…
その政事(まつりごと)と平和とはましくははり(増し加わり)て窮(かぎ)りなし」となっています。

聖書研究者としてボクも「メシアによる王国」を待ち望む者になりました。文語のその言葉はボクの心を熱くしました。
「平和の君」であるイエス・キリストが王座に就き、この地上に本来の世界である「楽園」を回復すること、それがボクの希望の中心となっています。

(イザヤ 11:3‐9) …そして,彼は目で見る単なる外見によって裁くのでも,ただ耳で聞くことにしたがって戒めるのでもない。そして立場の低い者たちを必ず義をもって裁き,地の柔和な者たちのために必ず廉直さをもって戒めを与える。また,必ずその口のむち棒をもって地を打ち,その唇の霊をもって邪悪な者を死に至らせるであろう。そして義は必ずその腰間の帯となり,忠実はその腰の帯と[なる]。 そして,おおかみはしばらくの間,雄の子羊と共に実際に住み,ひょうも子やぎと共に伏し,子牛,たてがみのある若いライオン,肥え太った動物もみな一緒にいて,ほんの小さな少年がそれらを導く者となる。また,雌牛と熊も食べ,その若子らは共に伏す。そしてライオンでさえ,雄牛のようにわらを食べる。そして乳飲み子は必ずコブラの穴の上で戯れ,乳離れした子は毒へびの光り穴の上にその手を実際に置くであろう。それらはわたしの聖なる山のどこにおいても,害することも損なうこともしない。水が海を覆っているように,地は必ずエホバについての知識で満ちるからである。

もし、アダムとエバが罪を犯して、神さまの支配を退けるということがなかったなら、神さまはメシアを任命する必要もなく、「エデン」は全地球的に広がっていたことでしょう。ですから、メシアの王国の使命は失われたエデンを回復するというものなのです。

イザヤ書の描く「復楽園」の世界は、ボクの希望であり、理想です。他の何にも勝る希望じゃないかな。
「人が人を支配する」(伝道の書8:9)ことは、独裁であれ民主主義であれ、必ず差別され苦しむ人々を生み出してしまいます。ボクはもう、人の支配にはうんざりしています。

「天の王国は近づいた」というイエスの言葉を聞いた人たちの中には、例えばメシアが武力で憎きローマ帝国を滅ぼして、イスラエルに偉大な王国を樹立すると考えた人たちもいたのかもしれませんね。事実、イエスの弟子たちでさえも復活したイエスに対してこのように質問しました。
(使徒 1:6) 「主よ,あなたは今この時に,イスラエルに王国を回復されるのですか

イエスの答えはこうでした。
(使徒 1:7, 8) 「父がご自分の権限内に置いておられる時また時期について知ることは,あなた方のあずかるところではありません。しかし,聖霊があなた方の上に到来するときにあなた方は力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」。

「時」については「父だけ」が知っておられます。「子」であるイエスでさえその時点では知りませんでした。
弟子たちがなすべきことはイエスがメシアであるということの証人となって全地で宣明することでした。

それでは、「天の王国は近づいた」と言えたのはなぜでしょうか? それは「メシア」である「王」が任命されてそこにいたからでしょう。
確かに事態は進展していました。そして、当時イエスの言葉を聞いた人たちにとっては「メシア」に信仰をおき、「王」のために働くチャンスをとらえることができたのはその時だけだったという事情もあるでしょう。

21世紀のクリスチャンであるボクらにとって、「王国」はさらに近づいたということは間違いありませんね。
それでも、その実現がいつのことなのかはまだ分かりません。

今できることは、その時がいつ来ても良いように、イエスの弟子として「緊急感」をもって人生を過ごすことでしょう。
その人生は世の富や名誉に重きを置かない、「シンプルライフ」であり「スローライフ」なのだと思います。
それ自体でとても「素敵な生き方」なのではないでしょうか?

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